●西洋美術が好きだったのに江戸の美術研究に進んだのは?
——西洋美術史をやるにはやはりヨーロッパに留学しないといけないと思ったんですが、当時は1ドル360円の時代で、ものすごくお金がかかりました。それに日本の伝統美術はやる価値があると思ったのも事実。私は、当時の学生のご多聞に洩れずマルクス主義にかぶれていて、“人民の作った美術”に誇りを持つことが正しいと思っていた。共産党は当時、民俗の伝統や人民の作った美術に誇りを持て、と盛んにアジっていたんですね。私がいた駒場寮にはそういう思想に影響された学生も多かったですから。
その頃、岡本太郎が雑誌『みずゑ』で縄文土器論を発表して、それにショックを受けたことも関係していたかもしれない。日本の美術の新たな可能性を示したもので、まったく日本的でないものが日本にあったという驚きがありました。
菱川師宣で卒論を書いて、親父の許しをもらって大学院に進んで、何を研究しようか、という段になった。指導教官は、助教授になったばかりの山根有三先生。弟子は私ひとりで、先生も赴任したばかりだから指導にかなり熱がこもっていましたね。この山根先生が、研究テーマに選んでみてはどうかと教えてくれたのが、岩佐又兵衛でした。江戸時代のはじめの、変わった経歴を持つ画家で、のちに浮世絵の元祖と呼ばれます。
●又兵衛は、子どもの頃に織田信長に母親を殺された人なんですね。
——ええ。父は伊丹の戦国大名・荒木村重です。当初は信長の家臣だったのに反旗を翻して信長の怒りを買ってしまった。
又兵衛が描いたと伝えられる絵巻が数種類、現在のMOA美術館にあります。なかで「山中常盤〔やまなかときわ〕」は、牛若丸が盗賊に殺された母・常盤の仇討ちをする物語。仇討ちの場面がクライマックスです。「浄瑠璃物語」は、牛若丸が浄瑠璃姫と一夜の契りを結ぶまでを執拗なまでに細かく描いた金銀極彩色の絵巻。大御所の先生が、こんな品のない作は又兵衛ではないといって、当時大論争があった。山根先生は否定説に懐疑的だったんです。それで「お前やってみろ」といわれた。
いざ絵を見ると、「山中常盤」の血腥いリアルな描写、「浄瑠璃物語」の恐るべき細密描写に圧倒されました。「山中常盤」の賊を皆殺しにする場面を見た後、弁当のシャケの切り身が食べられなかった。
その研究成果を山根助教授の上司であった米沢嘉圃教授の前で発表したのですが、これら又兵衛筆と伝える絵巻群はみな又兵衛の作だと主張したら、鑑識の達人であった米沢教授は「絵巻はどれも線が違う。君はもう一年かかるね」といって去ってしまわれた。