あの負けがあってこそ

2017年2月9日

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 平野はその釜石でラグビーと出合っている。釜石はラグビーの街で、ラグビーの思い出は父の姿と共にあった。

 「お休みの日は父と二人で練習したこともあります。走って、パスして、キックして、スクラムを組んでいました(笑)。私が高校2年生で花園(高校ラグビーの全国大会)のエキシビジョンマッチに出場したときに、地元のメディアに『夢はリオ・オリンピックに出ることです』と言ったら、周りの人たちは『へ~そうなんだ』と笑っていたのに、父だけは素直に頑張れって言ってくれました。私の夢を応援してくれている父です」

 「リオデジャネイロ・オリンピックに出場すること」、その夢は膨らんでいった。

 平野は在籍していた陸上部を引退後にラグビー部に入って男子の中で練習を始めた。ランパスなどの走る練習もタックルなどのコンタクト練習もいっしょにやった。しかし、周りの男子部員からは女子という理由で気を遣われた。そんな遠慮が嫌で女子だけで対等にラグビーがしたいと思うようになった。調べたところ、日本体育大学に女子ラグビー部があることを知った。

 夢はその一歩を踏み出したときに具体的な目標に変わる。

 日本体育大学への進学が決まり、本稿冒頭の葛藤に至るのである。

太陽生命ウィメンズセブンズシリーズ(東京大会)(撮影:筆者)

桜のマークを胸に

 父に背中を押され上京した平野の胸にはリオデジャネイロ・オリンピックへの明確な目標があった。

 「私が入学した頃の日体大にはラグビー経験者が少なく、部員数も15人くらいしかいませんでした。オリンピックが目標という選手も聞いたことがありません。みんな大学から始めた人ばかりだったのです」

 ただ、リオデジャネイロ・オリンピックから7人制ラグビーが正式競技に決まった後、他競技から転向する選手が増え、高校、大学でも女子の部員数が急増した。

 オリンピック効果で俄然熱を帯びだした女子ラグビー界にあって、平野はその非凡な才を早々に見せ始めた。

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