「兄と姉の勤務先は釜石市にあったのですが、駅からは離れていたのであまり心配はしていませんでした。しかし母は営業なので、その時どこにいたのかわからなかったのです。父が探しに出て3日間歩き回ってやっと会えたんです。私は近所に住む祖母の家を訪ねたのですが、家は流されていて行方がわかりません。それからいろいろな避難所を回って会えたときは嬉しかった。兄にも姉にもすぐには会えなかったのですが、何日か経ってやっと家族みんなで会えたねって安心しました」
小学校での避難所生活が始まった。そこでは「日本全国がこんな状態になっている」という情報が流れていた。「もしもそれが本当なら、大学の入学式もできないのかな……」。しばらくの間、電話が繋がらず確認することができなかった。
「やっと繋がるようになって、『入学式は通常通り行います』と聞いたので、その準備をしなければという思いと、自分だけが避難所を離れて大学に行っていいのだろうかという思いが入り混じって、いろいろなことを考えてしまったのです。あのときは先のことなんて、まったく見えませんでした。
地域の人たちは瓦礫の撤去とか炊き出しとかしながら、辛くて厳しい生活を強いられているんです。だから私もその手伝いをしなければいけないんじゃないかと思って気持ちが決まりませんでした」
上京する決心がついたのは、平野の夢を応援する父親の存在だった。その父が車で送ってくれた。
見送ってくれた母や祖母の姿に「みんなもがんばっているんだから、私もがんばるよ」と応えた。今でも思い出すと涙が溢れてくる。何年経っても夢を決意に変えた日として、鮮明に脳裏に刻み込まれているシーンなのである。
ラグビーの聖地・釜石でラグビーに出合う
平野がラグビーを始めたのは小学1年生。きっかけは父親の影響で姉と兄が釜石ラグビースクール(現・釜石シーウェイブスJr. )に通っていたからだ。
外で遊ぶような活発なタイプではなく、家の中で大人しく遊んでいるような女の子で走るのも速い方ではなかった。
「徒競走はいつもビリだったんです。それがラグビーを始めたら急に速くなって自分でもビックリ。嬉しくなりました。ラグビーのおかげかなと思っています」
筆者の若い頃、ラグビーと言えば「釜石」、釜石といえば「ラグビー」と返ってくるような新日鉄釜石ラグビー部の全盛時代である。国立競技場に大漁旗がはためき、寡黙な北の鉄人たちが冬枯れの芝を疾駆する姿は、ラグビーを象徴するシーンとしてメディアを通して広く知られていた。