Wedge REPORT

2017年2月13日

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 目を転ずれば、こうした現象は映画以外のエンタテインメントでも生じている。

 たとえば、2009年に開場したプロ野球・広島カープの本拠地マツダスタジアムには、さまざまな座席が準備されている。食事をしながら観戦するバーベキューシートや、寝そべってみる「寝ソベリア」などがそうだ。さらに、どの座席のひとでも球場を一周できるコンコースがあり、退屈した子供が遊べるようにゴリラの人形などの設備もある。昨年は期間限定でオバケ屋敷も存在した。

 音楽では、CD売上が落ち込む一方で、この15年ほどフェスやライブのマーケットが大きく成長している。2006年に1527億円だった音楽コンサート市場は、2015年には3405億円にまで伸長している(音楽業界における受容の変化は、先日出版された柴那典『ヒットの崩壊』を参照)。

 これらの隣接領域からも、観客の変化が見て取れる。映画にしろ、野球にしろ、音楽にしろ、観客はコンテンツを観賞することだけが目的ではなく、映画館や野球場やフェス会場などの「場」に“体験”を求めて足を運ぶ傾向が強まっている。いつ、誰と、どこへ(場)、なにを(コンテンツ)、どのように(発声)して体験するか──ということである。

 最近では「“モノ”消費から“コト”消費に」と語られるが、その萌芽は1999年に、日産自動車「セレナ」のキャッチコピー「モノより思い出」のときすでに見られた。21世紀のエンタテインメント業界は、確実に体験志向を強め続けてきた。

 映画は作品内容(コンテンツ)だけで総体を語りうることができないことは歴史的にも自明だったが、21世紀以降は受容体験(受け手)により重心が移ってきているのである。

興行との乖離が強まる映画評論

 こうした傾向において、より存在感を薄めつつあるのは評論家/批評家の存在だ。評論家も受け手の一部だが、長らく映画観客のオピニオン・リーダー(インフルエンサー)存在としての立場を示してきた。90年代までは、テレビの映画枠で評論家の淀川長治や水野晴郎が映画を紹介することなどにより、その存在は広く知られてきた。しかし、彼らが次々とこの世を去り、徐々に映画評論は目立たなくなっていった。

 しかし、映画観客が他者の評価を不要としているわけでもない。ネットの浸透によって、観客たちは一般の映画ファンの意見を参考とするようになったからだ。現在、映画観客の多くはYahoo!映画やFilmarksなど映画レビューサイトの意見を参考にしている。あるいは一般の映画ファンが運営する人気の映画評論ブログでは、年末年始に読者投票によってベストテンを決めている。これらは映画ファンたちが、みずからの志向性を介して共同性を確認する年次行事と捉えられる。その一方で、映画雑誌はどこも青色吐息で、金曜日夕刊の新作映画評はほとんど見向きもされない。受け手の代表者として映画評論家の役割は、減衰する一方だ。

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