2024年5月13日(月)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2010年5月6日

 今も、巨大市場での一攫千金を目指して日本企業はこぞって上海に進出。上海の長期滞在邦人は5万人、短期・中期を含めると10万人に上ると言われ、日本企業数も7500社を超える。しかし日本企業は中国の商取引上の「非常識」を受け入れられず、日本の「常識」を持ち込んで失敗するケースが多い、とある上海在住の日本人が教えてくれた。つまり「現地化」できず、経営方式が「日本化」に陥る傾向が改まっていない、というわけだ。その結果、中国民衆の心をつかむのに苦労している企業が多いのだという。

 そういう点で上海万博は、日本企業の進んだハイテク技術や日本の歴史・文化を中国人に直接伝える絶好のチャンスだ。万博パビリオンのうち「日本館」や「日本産業館」には長蛇の列ができているが、それは中国人の日本への憧れと期待の表れでもあるのだ。

日本の1970年代と80年代後半が同居する中国

 ここで1970年に大阪万博を開いた日本と、それにならい、40年後に上海万博を開催した中国を比較することで中国の歩む道を模索してみよう。

 日本産業館をプロデュースした作家の堺屋太一氏は1984年、当時の汪道涵上海市長に万博開催を提案していた。「上海万博は大阪万博をモデルにしている」と語る上海の政府機関幹部も当時、日本の経済界が上海市に3つの提案を行ったと明かす。

 「第1に浦東開発、第2に長江地域経済協力、そして第3に上海万博だった。五輪はすぐ終わるが、万博は半年間続く」

 日本は戦後から25年で大阪万博開催までこぎ着けた。一方、中国では大阪万博当時、文化大革命の真っただ中で大混乱。日本にとって終戦が復興の始まりとするならば、中国にとっては改革・開放がその始まりだ。つまり32年で万博開催というわけだ。

 よく「今の中国は日本の1970年代に似ている」と言われるが、「個」意識が台頭し少しでも豊かになろうという活気は確かに似ているし、中国で深刻化している公害・環境破壊や交通渋滞などは日本の70年代の頃と同様だ。ただ上海で深刻化する不動産価格の急騰やぜいたく品ブームをみると、日本の70年代とバブル絶頂の80年代後半が一緒に来たというのがより正確だろう。

 日本は大阪万博から約20年でバブルが崩壊、今も「失われた20年」とも言われる経済後退期から抜け出せない。一方、胡錦濤指導部も今、不動産投資に依存しすぎた成長モデルの転換を実現しないと、日本のようにバブルが崩壊し、経済全体の冷え込みが社会や国家の安定を揺さぶると危機感を募らせているのだ。

万博直前に起こった3日連続の惨劇

 胡錦濤の頭には、華やかな舞台よりもその裏で起こる厳しい社会矛盾で頭が一杯だろう。万博でも笑顔が少なかったのは、青海地震や3日連続の子供襲撃事件などで国民向けに緩んだ顔を見せられない深い悩みがあるからだ。温家宝首相は1日、上海には行かず、青海省の地震被災地に向かった。被災者を見舞う温の姿には悲壮感が滲んでいた。

 万博を直前に控えた4月28日、広東省の小学校で、刃物を持った別の小学校の男性教諭が校内に侵入し、児童ら17人が負傷。翌29日には、失業中の男が江蘇省の幼稚園を襲撃し、園児ら計32人が重軽傷を負った。さらに30日には山東省の小学校で地元農民の男が児童を次々襲い、5人が負傷した。3月23日には福建省の小学校に医師を解雇された男が侵入し、児童8人を殺害、5人を負傷させる惨事も起こった。


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