だが、この罪悪感はいつまでも韓国人の本能を抑え続けることができなかった。何処何処の桜が美しく咲き誇っていると話題になれば、人々は吸いつけられるかのように桜を見に出かける。近年では全国各地の自治体が観光客を誘致しようと観光地化を推し進め、競うように桜の名所と宣伝し始めた。このような風潮に対して、「韓国の花もいろいろあるのに何で日本の花?」、「日本文化の真似だ」といった懸念の声があがったことは言うまでもない。
これに対し、これらの懸念をきれいに払拭してくれる主張が登場したのだ。それこそが「桜の原産地は韓国である」という主張だ。つまり、日本の象徴であり、日本の花だとして知られていた花は実は韓国原産である、という主張は、桜を好み、愛する韓国人達を罪悪感から救い、強迫観念から解放してくれたのだ。今や自制する必要はなく、日本の目を気にする必要もない「名分」を得たのである。
韓国伝統文化の中に見当たらない桜の痕跡
桜は親しみのない花だった
桜の原産地が厳密に言うとどこであるのかという問題については、専門家ではないので判断することは控える。だが、確実に言えるのは、韓国に樹齢何百年といった桜の老木があったとしても、桜を愛でて楽しみ、あるいは生活の中に利用するような文化や情緒は無かったという事実だ。これについては、韓国内での名コラムとして知られている朝鮮日報の「李圭泰コーナー」でも指摘されている。
(朝鮮日報 1985年 4月21日)
韓国には桜が登場する古典文学や詩歌は知られておらず、伝統的な料理の中で桜を使ったものも、私の知る限りは存在しない。古典文学や詩歌の中にも頻繁に登場し、餅や菓子などの材料として使われ、絵に描かれ、着物の柄として使われてきた日本との差は歴然としている。
もちろん、これが原産地論争の結論と直結するわけではないが、明らかなのは、桜が韓国に原生していたとしても、「ないがしろにされてきた花」に過ぎなかったということだ。