『いわきより愛を込めて』

2017年8月23日

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 海岸線に出て少し北上すると、やがて、抜けるような青空に純白の灯台が突き刺さっているのが見えてきた。塩屋埼灯台である。

 塩屋埼灯台の下には、美空ひばりのヒット曲「みだれ髪」の石碑があり、石碑の前に立つとひばりの歌が聴こえてくる仕掛けになっている。灯台からのダイナミックな眺望と、この石碑目当ての観光客が多い。

 塩屋埼灯台の南側には豊間海岸、北側には薄磯海岸が広がっている。この地域は東日本大震災による津波で甚大な被害を被っており、いわき地域復興センター発行の『東日本大震災の記録 はまどおりのきおく2』によれば、薄磯地区では住民787人が津波の被害を受けて111人が死亡しており、これはいわき市全体の死者の3分の1に当たる人数である。豊間地区では1784人が津波の被害を受けて、83人が亡くなっている。

 薄磯も豊間も小高い丘が海岸線まで差し迫った地形をしているから、ここに10メートル近い津波が押し寄せたらひとたまりもないことは、なんとなく想像がつく。実際、『はまどおりのきおく2013.3.11』と前出の『東日本大震災の記録 はまどおりのきおく2』(いずれもいわき地域復興センター発行)の写真を見ると、薄磯・豊間地区が、わずかな建物を残して、ほぼ壊滅状態だったことがわかる。

 ひばりの「みだれ髪」の碑の近くにある土産物屋は、塩屋埼灯台が防波堤の役割を果たして奇跡的に無傷だったそうだが、豊間中学は津波で破壊され、豊間小学校は辛うじて無事だったものの、校庭までがれきが押し寄せたという。

奇妙に直線ばかりで構成された風景

 薄磯地区では、いまだに防波堤の工事が行われていた。昨年訪れた時は何台もの大型トラックが行き交って濛々と砂塵を巻き上げている状態だったが、今回はあまりトラックを見かけなかった。完成が近づいているのだろう。

 海岸は、土砂を接着剤で固めているのか、奇妙に直線ばかりで構成された風景と化していた。根無し草としては、もう少し自然な感じにすればいいのになどと無責任に思ったりするのだが、地元の人は、たとえ美しい海岸線を眺めることができなくなったとしても、日々の安全と安心の方を選ぶのかもしれない。

 海に迫っている丘陵の切れ目の道を少し上ると、豊間小学校が見えてくる。抜けるような青空とはまさにこのことを言うのだろう。眩しい光の中で校舎の周りを掃除していた子供たちが、われわれの方を不思議そうに眺めている。どの子も両脚に、「手甲」のような短い袋状のものを穿いている。何かと思ったら、膝をついて雑巾がけをする時に膝を守るための「膝当て」だという。私は生まれて初めて見たが、いわきではスタンダードなのだそうだ。

 校長室で、波立真一校長と児玉健治教頭のおふたりの話を伺った。豊間小の現在の在校生は74名であり、今年は新入生が15名入学したという。昨年の新入生(現・2年生)は7名だから倍増と言えば倍増だが、全校生徒の数はいまだに震災前の3分の1に過ぎない。波立校長が言う。

 「避難して5年も経ってしまうと避難先で友だちが出来たりするので、なかなかこちらには戻ってきませんね。人口が回復しないことには生徒数が増えることもないわけですが、でも、少人数だけに、ひとりひとりの生徒の個性に対応した教育ができていると思います。全体の成績もいいし、教員の目が行き届いているので不登校もいじめもありません。子供たちは満足して卒業していくと思います」

 福島県の小学校には、生徒30人までは1クラス、31名になると2クラスに分けるという決まりがあるそうだ(1、2年生の場合)。豊間小には各学年2クラスずつの生徒を受け入れるキャパシティーがあるが、現在は全学年1クラスしかない。そして、キャパシティーをフルに活用するだけの生徒が将来的に集まってくる可能性は、かなり薄そうである。

 校長先生の案内で、校舎の屋上に上がらせてもらった。豊間小はちょうど丘陵の背後に隠れるような位置に建っており、海岸側に目をやると、緑に覆われた丘と丘の切れ目からわずかに水平線が見える。津波によるガレキはこの切れ目を通って、校庭まで押し寄せたのだ。

豊間小学校の屋上から見える造成された土地

 校舎の裏手では、大胆に丘を削って土地の造成が行われていた。換地用の土地の造成だという。すでに電柱が何本も立っているから、造成自体は完成しているのだろう。

 換地とは、海辺に住んでいて被害に遭った住民を高台に移住させるために、元の土地と造成した高台の土地を交換することを言う。元の土地の約80%の広さの土地と交換できるそうだが、上物は自力で建てるしかない。

 「資産を持っていた人は、すでにいわき市内に家を建ててしまった人が多いと思いますから、これからこの換地に家を建てる人は少ないんじゃないでしょうか。薄磯には練り物などの海産物加工場がいくつかあったのですが、いまは産業がありませんから、なかなか人は戻ってこないでしょうね」

 豊間小学校の奥には豊間中学校の新しい校舎が建設されており、一階には保育所も作られていた。小学校と中学校は避難通路で結ばれていて、万一津波が襲ってきたら、海に近い小学校から少し高い位置にある中学校の校舎へ避難できる構造になっている。

 換地用の土地の造成も、中学校の新しい校舎や体育館の建設も、山を削って行われているだけに莫大な費用が掛かっているに違いない。そして、子育て世代を呼び戻すためには、波立校長の言うように、企業の誘致も不可欠だろう。

 子供を受け入れる体制は着々と整備されているが、肝腎の子育て世代がやってこなければ、これだけの施設が十分に生かされることはない。それには、いったい何が必要なのだろうか。

 吉永小百合ではないけれど、東京でオリンピックなんてやっている場合なのかと言いたくなってしまう。

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