しかし日本からみて、そのような国と従前のように安定的で継続的な経済関係を続けるのは難しいという印象が強まったのは否めない。たまたま得られた中国特需(たとえばこれまでの富裕層への販路拡大や訪日観光客の急増)はあくまで特需と割り切ることが肝要なのだろう。むしろ、日本経済の再建による国内需要の喚起や、他の国々との関係強化を通じて生き残りを図ること、そして中国の追随を許さないような絶えざる日本製品・文化・社会の魅力度向上こそ日本の安定にとって必要なのではないか。
これは言うなれば「政冷経冷」の「日中冷戦」かも知れない。しかし、このような状況は長い歴史的スパンでみれば珍しいことではない。
とくに近世史においては、近現代中国の前身である清からみてもっとも疎遠な国が日本であった。何故なら、明代には倭寇が東シナ海の沿海部を荒らし、豊臣秀吉が朝鮮に出兵して明をも支配しようとしたことに対する恐怖感が漢人の知識人のあいだで長く残ったからである。また、清の支配者であり騎馬民族である満洲人は、絶海に浮かぶ日本には関心が薄く、日本が朝貢を望まないのであれば《天朝》の恩恵の外側に捨て置けば良い、という方針が一般化した。
日本としても、徳川家は日本列島を中心に、蝦夷地・朝鮮・琉球を「異国」として配置する「徳川の天下」で満足したし、とくに国学者や水戸学者などは、天皇を差し置いて征夷大将軍が朝貢に行き、服従と引き替えに利益を取ることはないという立場を取った。
要するに、日清双方とも相手の得体の知れない存在感に違和感を覚え、接近しすぎた場合の問題が大きいことから、互いに積極的には関わらなかったのである。とはいえ、日清双方とも貿易や知的交流までは否定しなかったので、長崎出島での貿易が栄えた。とくに、清には日本産の銀が流入して18世紀の経済発展の一要因となった。いっぽう江戸期の武士は出島経由で流れて来る漢文の知識、とりわけ儒学者が記した経世致用の学問に触れたことで、西洋のアジアにおける影響力や蘭学の長所を敏感に察知し、そのことが明治維新と近代化を可能にしたともいえる。
「友好親善」路線ではなく
真の戦略的互恵関係の構築を
とはいえ、今やグローバリズムの時代であり、互いの経済的相互依存が進んだ日中両国がともに国際社会に対して経済的に責任を負っていることを深く認識する必要がある。出島式の制限貿易や人的往来の阻害はもはや取るべきではない。