さて。どうしよう。列車に揺られながら、食べてしまいたい。しかし、持ち帰ったら、喜ぶに違いない家族の顔も浮かんでくる。悩ましい。いっそ、余計に買っておけば良かったか……。
お土産として、喜ばれる駅弁。その代表が、今も私が列車の中で「食べたいなあ」と思い悩んでいる、「源(みなもと)」のますのすしではないか。
その本社兼工場は富山駅から車で二〇分ほどの工業団地にある。もともとは駅前にあったが、それではまかないきれなくなったからと、広報担当の上野葉子さん。
広々とした駐車場に、次々と入ってくる観光バスを目にすると、それも納得できる。工場見学の目的地となっているのだ。
合理化されて、機械の作業で流れる部分と人の手で丁寧に、という作業が相まって、お馴染みのますのすしが出来上がっていく工程をガラス越しに見学するコース。江戸時代からの旅と弁当についてのコレクションを展示したコース。そのような工場見学のルートに加えて、売店や、一休みしたり、買ったばかりのお弁当を広げることが出来る、レストハウスまでが揃っている。
「なるほど」。そういう歴史があって、富山の名物なのかと納得し、食べたくなるというわけ。
で、何故、ますのすしなのか?
現在では江戸前の握りのイメージが強いから、作りたてをすぐに食べるものだと思われがちだが、もともと、すしは保存食である。
塩漬けにした魚をさらに炊いたご飯と合わせ、密封して数カ月から数年、漬け込むものだった。乳酸発酵して、ご飯も酸っぱくなっているから、酸し=すしなのである。タイ、ラオスから南中国あたりが原産と考えられている。琵琶湖のフナズシがその系譜である。と呼ぶ。
麹を加えると、早く安定的に発酵する。そのような工夫がされるようになる。金沢などで名高いカブラずしなどはその系譜である。ハヤナレ、つまり、早く馴らしたものである。
そのあたりまでは同類が大陸でも見られたが、ご飯や具となるものを酢でしめるような作り方に進んだのは、日本のオリジナルである。関西の押し寿司であったり、さらには江戸の握りであったりになる流れである。
ところで、話は富山だ。この地を流れる川には、鮭や鱒が豊かだった。平安時代の『延喜式』に、都への献上品として神通川の鮭のナレズシが登場するくらい、古くからすしの系譜が作られていた。そこから、カブラズシのようなものやら、現在のますのすしのようなものが、作られるようになっていったと思われる。豊かな魚を持つ神通川と、流域に広がる水田稲作が合わさって出来上がった食文化なのである。
その地域の名物が、特に全国的に有名になるきっかけが、駅弁だった。
明治四一(一九〇八)年、北陸鉄道富山停車場が現在の地に誕生した。この時、富山でもっとも格式のある料理旅館、「富山ホテル」が駅構内での弁当販売を許された。
当初は幕の内のような弁当を売っていたが、四年後の明治四五年、現在のますのすしの販売を開始した。土地の伝統的な食文化を、後に「源」となる会社は駅弁としたのだ。
日本で最初の駅弁が、お握りであったことは有名な話だが、それに続くのも幕の内の類である。どこが最初とまでははっきりしないのだけど、このますのすしのように土地の名物を駅弁とする発想は、明治時代にはあまり見あたらない。後年、「ライバル」となる、函館本線森駅の「いかめし」の発売が昭和一六(一九四一)年、信越本線横川駅の「峠の釜めし」が昭和三三年なのである。
慧眼。他所とは違う弁当が評価されるようになると、先を見る目があったのか。
全国的にブレークしたのは、昭和三〇年代、四〇年代あたりからだという。その頃から、デパートの駅弁大会があった。とはいえ、新幹線開通前夜。現在のような交通網ではない。
日持ちしない駅弁は難しい。が、このますのすし、先に書いたように日持ちが身上である。
お土産にしやすいという利便性。そして、ご飯が見えないくらい豪勢に、美味しそうなますに覆われている様。如何にものご馳走。加えて、今や誰でも知っている、中川一政画伯のますの画のパッケージ。
工場見学から、さまざまな要素を見ていくと、名物となるのも納得の話なのだった。今では種類も増えて、どれにするか悩ましいほど。
結局、家族の笑顔というか、妻のコワイ顔というか、そのあたりが浮かんで、空腹を我慢して、家まで持ち帰った……。