自分が決めた道ではなく、狂言師の家に生まれたから課せられた道という疑問を抱えたまま、17歳で「三番叟(さんばそう)」を披(ひら)いた※。また一歩、狂言の世界に深く足を踏み入れ、この時、狂言師として生きる決心をしたと語っている。
「今考えると、いろいろ表現の選択肢があるのにわざわざ狂言をやらなければならないという自分の運命を、とりあえず受け入れようってことだったんでしょうね」
その直後、黒澤明監督の映画「乱」で盲目の少年・鶴丸役のオファーがきた。
「監督からの注文はありますが、こうでなければならないという型がプログラミングされている僕にとっては、その瞬間の心意気とか心理などを含めて自分で作っていけるのは新鮮でした」
自分の生きる世界とは違う表現世界にふれることで、17歳の心に波紋が広がる。こっちのほうがより自由なんじゃないかとか、性に合っているんじゃないかと感じていたのかもしれないと、当事の自分を振り返った。
「狂言の場合、型の完璧さだけでなく型を通して個性が発揮されるからこそ、時代性がにじみ出たり、演者によって面白みが違ったりするわけなんですけれどね」
当時はまだ、狂言はどちらかというとマイナーな世界、興味のある人は深く入り込むけれど、多くの人にダイレクトにその魅力を伝えるのは難しいという状況もあった。
「マイナーだっていう意識はありました。父の職業を説明するのは難しかったですから。小学生の頃、父がコーヒーの〝違いがわかる男〟のCMに出てから、かなり説明が楽になりましたね」
萬斎自身も、その才能の豊かな広がりがさまざまな方向から求められるようになり、狭き扉を自ら広げながら、狂言という表現の世界も狂言師としての軸も少しずつ太く大きくしていったのではないか。
型を壊さず、型を超える
萬斎の著書に『狂言サイボーグ』(日本経済新聞社)という1冊がある。01年に上梓され、狂言師にとっての基礎である型の持つ意味と自らの歩みを重ねた興味深い内容だが、サイボーグという言葉が言外に何かを訴えているようで強い印象を残した。
サイボーグとは、サイバネティック(自動制御系の技術)とオーガン(生命体)の合成語で、機械と生命の合体。石ノ森章太郎の『サイボーグ009』の主人公、人の心を持ちながら人間でも機械でもない存在に改造された島村ジョーを思う。
※能、狂言で大曲を初演すること