革命家・孫文が好んだ初代のお粥
初代店主の顧宣徳氏が来日した年や目的は、今となっては分からない。
「日本で一旗揚げたいと思ったんじゃないでしょうか。はじめのうちは、ロシア系の銀行で賄いの仕事をしていたという話です。ところがこの銀行は、日露戦争が始まったことで潰れてしまった。職を失ったわけですが、初代は料理が上手かったので、周囲の中国人の勧めもあって、中国人向けの賄い付き下宿を始めたそうです」
この下宿を利用した「後の大物」がいる。辛亥(しんがい)革命後の明治45年に建国された中華民国の臨時大総統、孫文(そんぶん)である。
「孫文さんは胃腸が弱かったので、お粥を好んで食べていたと聞きました。近くで講演会をした時には、お粥を出前したこともあったそうですよ」
革命家の孫文は胃袋もタフだと思っていたが、それとは真逆だったとは面白い。
「辛亥革命の後、日本にいた中国人は続々と帰国しました。でも初代は残って、日本人相手の料理店を始めることにしたんです。店名は『漢民族に陽が当たる館』という意味。中国同盟会という孫文さんの政治団体の方々が、お世話になったお礼として屋号を付け、看板も寄贈してくれました」
やがて日本と中国は戦争に突入する。
中華料理店は中国人学生が立ち寄る店として、軍や警察から目をつけられたという。和田さんは、その当時のことについては伝え聞いていないと語る。
「私は、先代料理長の息子です。父の覚二(かくじ)は築地で仲買人をしていました。戦争が終わり市場に仕事はないうえ、食べものも手に入らない。そんな状況の時にここを紹介してもらい、住み込みで働き出したんです。中国は戦勝国だから、食料は豊富にありました。料理は2代目の顧佑賚(ゆうらい)・秀清(しゅうせい)夫妻から習いました。母のきみ江もここで働き、親子で住み込んでいました。両親は日本人ですけど、私は中華料理で育ったわけです」