「日本のカルチェ・ラタン」と呼ばれる東京・神田神保町。世界一ともいわれる古書店街が広がり、多くの大学が集まる文化の香り高い地域だ。
明治・大正時代に来日した大陸からの留学生も、神保町を闊歩していた。日本語習得など受験準備をするための東亜高等予備学校、中国人たちのサロンというべき中華留日基督教青年会館がこの地にあったからだ。
後に27年間の長きにわたって中国国務院総理を務めた周恩来(しゅうおんらい)も、その1人だった。大正6年(1917)に来日。神保町に下宿をし、志望していた第一高等学校と東京高等師範学校の受験には失敗したが、当地に建つ明治大学政治経済科で学んだ。
周は留学中の様子を日記につけていた。それが平成11年(1999)に『周恩来「十九歳の東京日記」』(小学館文庫)として刊行されたことで、「漢陽楼(かんようろう)」は注目を集めることとなった。よく通った店として実名が記されていたからだ。
この店は明治44年(1911)に、浙江(せっこう)省出身の顧宣徳(こせんとく)氏が開いた。創業の地から移転はしたものの、一貫して神保町で同省寧波(ニンポー)の家庭料理を出している。
「創業者一族からの伝え聞きによると、周恩来さんが好きだったのは、獅子頭(ししとう)という大きな肉団子入りのスープです」
と説明するのは4代目店主の和田康一さん。
「ただしこれは安い料理ではないので、学生ではなかなか手が出ず、普段は安価な豆腐料理ばかり。日本人は冷ややっこのように豆腐を生で食べますが、中国人は煮たり焼いたりして食べます。周恩来さんも焼豆腐を好んでいました。獅子頭は、自分へのご褒美として月に一度だけ食べたという話です」
留学時代の様子が垣間見えるエピソードだ。