一人ひとりが受けた心の傷も大きく、「不安を感じるな」というのは無理な話です。そうした不安に寄り添った丁寧なコミュニケーションや誰の判断も否定しない共生が実現されるのは理想的で、それに向けた努力は最大限になされるべきだとは私も考えています。
一方で、そうした根気強いコミュニケーションを実際に行うためには、現場で責任を持って役割を担う、高度な専門知識を持った人材が数多く求められます。人手は圧倒的に足りず、時間も相当かかります。
また、そもそも「問題が解決されない方が、福島が不幸であり続ける方がメリットになる」人の存在もあるのです。
福島での被害が大きい方が反原発運動やそれを用いた政権批判の主張、あるいは補償の点で有利であったり、被曝の不安を煽った方が自社の商品や本が売れたり、福島の米がいつまでも安いままの方が自身は儲かったりなど、問題を解決していくためには、複雑に絡み合った利害関係に対する視点も欠かせません。そうした中で「守られていくべきものは何なのか」という問題なのです。
現実問題としては、「理科」から「社会科」への橋渡しを行うための、つまり科学的な安全性を基にした大勢の方々の「安心」を得るための手法の一つである「一人ひとりの不安に寄り添う丁寧なコミュニケーションによって偏見を無くしていく」「互いの判断を尊重して否定しない」という理想だけでの問題解決は残念ながら絵に描いた餅になりつつあるといえます。
実は、これに似た状況が原発事故とは関係無い東京都中央卸売市場の豊洲への移転議論の際にも見られていました。
豊洲市場ではすでに充分に科学的な「安全」が確保されていたにも関わらず、リスクを過剰に喧伝させる「問題提起」によって大勢の人の不安が巻き起こされ、移転が政治問題として政局に利用されたこともあってさらに泥沼化しました。
この問題へのアプローチに対して、小池東京都知事からは「科学的な安全性」以上に「人々の安心」を丁寧に得ようとすることを最優先にした手法が用いられたことは記憶に新しいかと思います。
結局、「素朴な不安」を抱えたままの人たちからの「安心」や同意は完全には得られないまま、ほぼ当初の予定通り豊洲への移転は決まりましたが、移転の遅れによる莫大な経済的損失や追加コスト、豊洲と築地双方への風評や偏見などの被害が生じました。すでに東京オリンピックの準備にも大きな支障が発生しているとの指摘もあります。
「豊洲移転問題」で1年近くかけて試みられた「『素朴な不安』へと丁寧に寄り添ったコミュニケーション」を最優先させる手法の前例は、決して成功したとはいえないでしょう。
複雑な価値観と利害関係が絡みあう中で、科学的な事実である「安全」をより大勢の方の「安心」へと変えていくためには、様々な事情を抱えた一人ひとりの「不安そのもの」に丁寧に寄り添うことだけではなく、誤解に対して「違うことは違う」と毅然と否定して原発事故由来での不安の総量を社会全体から減らしていくことを同時に行うことが、やはり避けては通れないのです。