2024年12月5日(木)

『いわきより愛を込めて』

2017年10月22日

 西川珠美さんの「その後」を記すためには、当然のことだが、1回目(2016年1月27日)のインタビューの内容をまとめておく必要がある。

西川珠美さん

 西川さんはすでに述べた通り、東京都市大学(旧・武蔵工業大学)工学部の環境エネルギー工学科(現在は学科が再編されている)を卒業している。この学科は太陽光発電、燃料電池、原子力などエネルギー全般について学べる学科であり、西川さんはさまざまなエネルギー分野の中から、原子力を選択している。

 「当時は、原子力って面白いと思っていたのです。火力発電よりも環境に対する負荷が少ないクリーンエネルギーだっていうイメージがあったし、実際、そういう論調が多かったのです。いずれ、原子力の世界で働きたいと思っていました」

 就職先の第1志望は東京電力だった。大学3年生の春休み(2011年2月)には、東電に就職を希望する学生を対象にした福島第1原発の施設見学会にも参加した。東日本大震災のわずか1カ月前である。

 震災が発生すると、西川さんの学生生活は一変した。

 「実は、大気中のダイオキシンとかPM2・5なんかを測定するフィルターって、日本全国いたるところに設置されているのですが、同じフィルターで大気中の放射性物資を捕まえることができるんです。でも、放射性物質を測定する機器を持っている大学や研究機関は限られているので、うちの大学に日本じゅうから大量のサンプルが送られてくることになったんです」

 西川さんは大量のサンプルの分析に忙殺される一方で、被災地に対して何かできないかという「居ても立ってもいられない感」に苛まれた。ちょうど6月に、文科省が全国の大学に対して被災地の土壌汚染と空間線量のマップを作るための協力要請を行っていた。西川さんはこの調査のスタッフとして約1週間間、福島の土壌採取と空間線量の測定を行うことになった。

 「飯館村や田村市に入ったのですが、飯館村はまだ計画避難区域に指定される前で、住人の方がいたんです。その時に出会ったジジババがとても印象的で、私たちが測定している横で農作業をしているんですよ。訛りが強くてハッキリとは聴き取れないのですが、『もう田畑は作れないから木を植えるんだ』って、私たちとは目を合わさないで、土に向かって語り掛けるような、投げ捨てるような感じで言うんです。すごいリアリティーを感じて、ああ、ニュースで言ってる避難って本当はこういうことなんだ、福島の人の気持ちは東京にいてもわかんないんだ、実際の被災地のことをもっと知りたいなって思うようになったんです」

 4年生の夏休みには、阪神大震災の時に生まれた「足湯」のボランティアをやるNGOのメンバーと縁ができて、神戸大学の学生たちと一緒に岩手県の陸前高田や大槌町に行くことになった。

 「この足湯のNGOにはたくさんの実績があって、独特のノウハウを持っているんです。仮設でお湯を沸かして被災者の方に足湯を使ってもらうのですが、その時、足のマッサージをするんですね。そうするとだんだん心がほぐれてきて、本音の呟きが漏れてくる。それを後でメモして、さまざまな施策に被災者の本音を反映さていくんです」

 第1志望だった東電の採用がなくなってしまったので、西川さんは原子力安全基盤機構の採用面接を受けることにした。原発を廃炉にした後のクリアランス制度に興味があったのだ。しかし、最終面接で落とされてしまった。

 「4年生の冬に足湯のボランティアの報告会があって、郡山出身で足湯の映像と会話の分析をやっている人に出会って意気投合して、東京に避難してきている富岡町の子供たちの学習支援を一緒にやらないかって、誘われたんです。原子力に行くのかどうするか迷っていたのですが、ボランティアの方にハマってしまって、結局、就職しないまま大学を卒業してしまいました。ボランティアは自分のリハビリになるなとも思いました」

 「リハビリ」という言葉には2つの意味がある。ひとつは、大震災の津波の映像を見て不安定になっていた精神のリハビリ。もうひとつは、高校時代からの持病のリハビリだ。
 西川さんは高校時代にナルコレプシーという睡眠障害を発症して以来、とても「やさぐれていた」という。

 「自転車で坂を下っている途中に眠っちゃって大怪我をしたり、授業中にも眠ってしまうので成績はどんどん下がるしで、中学時代はトップクラスの成績だったのに、もう価値観が崩壊してしまって……」

 時間も場所も関係なく突然眠ってしまうナルコレプシーという病気は、周囲からなかなか理解を得られない病気であり、病気を理解しないことは教師も同じだったのだ。

 「先生から、ただ眠いだけじゃないか立ってなさいなんて言われて、あれはキツかったですね。他人は自分のことなんて絶対に理解してくれないんだと思いました。でも、足湯のボランティアに行って、この時のキツイ経験が役に立ったのです。被災者の中には笑いながら辛いことを話す人もいるのですが、私はその笑顔が本物かどうか他者にはわからないと思えたんです。病気の時に味わった感覚が被災者の心の理解に役立ったとも言えますし、被災者の方の姿を通して自分自身を理解することができたとも言えます。私は病気をして以来ずっと自己肯定感を持てずにいたのですが、ボランティアに関わることで、自己肯定感を取り戻せた気がします」

 就職を決めないまま卒業してしまい、研究室に残って例のサンプルの分析などをしながらも「就職しなくては」と焦っていた西川さんは、富岡町のHPを見ているときに、川内村に設置される福島大学のサテライトが放射線担当を募集していることを知る。川内村は東京で勉強を教えていた子供たちの故郷、富岡町の隣にある村だ。応募をするとトントン拍子に採用が決まった。


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