2024年4月27日(土)

『いわきより愛を込めて』

2017年10月22日

 卒業後の9月まで大学の研究室に通い、10月まで福島大学で研修を受けた後、12月20日に川内村に引っ越しをした。

 「めちゃめちゃ寒かったです(笑)。これはやばい、死ぬぞって思いました。大家さんが灯油のファンヒーターを貸してくれたのですが、私、灯油を使ったことがなかったんですよ」

 仕事の内容は、ひと言で言えば「大学と現地を繋ぐこと」、いわば現地特派員のようなのだった。川内村の人々に大学の調査のためのアンケートを取り、ヒアリングをかけて聞き出した内容を大学に繋いだ。病気をしたことで身に着いた、「他者には当事者のことは理解できないが、近づくことはできる」というスタンスが役に立った。

川内村の濃密な人間関係が新鮮だった

 初めての仕事に四苦八苦しながらも、川内村での生活は初めてのことばかりで新鮮だったと西川さんは言う。人間関係が希薄な東京のマンションで生まれ育った西川さんは、祖父母との交流以外には親戚付き合いも少なく、川内村の濃密な人間関係が新鮮だった。

 「家族でもないのに、こんなに面倒見てくれて、気にかけてくれるんだって驚きました。米や野菜は村の人がくれるし、仕事が終わる頃になると大家さんが、『今夜は寒いから鍋焼きうどんにするけど食べる?』なんて、電話をくれるんです。プライバシーはないけれど、絶対に都会では得られない、素敵なことだなと思いました」

 仕事面で痛感したのは、原子力や放射能のことをかみ砕いて説明する人が存在しないことだった。原子力の世界は閉鎖性が強く、そもそもそうした存在を必要としてこなかった。しかし、福島第1原発の事故が状況を一変させた。

 さまざま調査が行われ、さまざまなデーターがインターネットで公開されていたが、川内村のジジババはそれを理解することができない。いや、理解する以前に、彼らはパソコンを使わないのだ。

 「川内村では新聞やネットよりも、口コミの影響力の方が大きいんです。だから口コミに情報を乗せていく必要がある。それにはとにかくジジババにわかるように伝えることが大切だし、難しい情報をかみ砕いて伝えることのできる人間が絶対に必要なんです」

 西川さんは、まさにその役割に打って付けだった。そして“はまり役”を得たことは、病気で失った自己肯定感を回復するのに大いに役立ったのである。

 サテライトのスタッフの仕事は2015年の7月をもって終了した。震災前の川内村の人口は約3000人だったが、震災後は平成27年の国政調査ベースで2021人、避難先と行ったり来たりの人がいるため実際には1600人程度まで減少しているのではないかと西川さんは推測している。毎年、50名近くの高齢者が亡くなる一方で、避難先から戻ってくる子育て世帯は少ない。

 「移住者が増えないと、川内村は現状維持さえ難しい状況です。音楽をやりたい人とか農業をやりたい人とか、意外に川内村への移住を希望している人は多いのですが、特に農家の人たちは移住を希望する人に空き家を貸したりするのをためらうんです。これまで経験がありませんからね。そういう橋渡しをやっていけたら、私を育ててくれた村に恩返しができるんじゃないかと思って……」

 西川さんは川内村残留を決断した。収入の途を失った川西さんは、原発や被災地の状況を取材に来るマスコミや大学のツアーガイド、村内の塾の講師などをやって収入を確保しながら、村の若手を巻き込んで「川内盛り上げっ課」を立ち上げた。

 盛り上げっ課のメンバーは約20人。若者の減少で活気を失っていた春と秋のお祭りに福島大学の学生を呼び込んで、その名の通り「盛り上げ」たり、コミュニティーセンターを使ってさまざまな講座を開いて移住者と村人を繋ぎ合わせたりと、八面六臂の活躍をしている。

「講座の内容は、DTM(デスクトップミュージック)とかディジュリジュなんていう民族楽器の講座もあるし、補助金の勉強会なんて現実的なものもあります。いま、首都圏から地方への移住を希望する人がたくさんいるので、そんな未来の川内村の住人になるかもしれない人たちと繋がらない手はないんです。経済的には安定していませんが、うまくいったらもっとハッピーな川内が待っていると思うんです。もう、いろんなことがやりたくて仕方ないんです」

 ……というのが、第1回目のインタビューの内容である。当日は晴天だったが、雪がかなり積もっていてものすごく寒かったのを覚えている。村内の「いわなの郷」で食事をし、草野心平が川内村の名誉村民であり、村内に心平の蔵書を所蔵する天山文庫があることを知ったのもこの時だ。

 さて、西川さんは「その後」、川内村でどんな日々を送ったのだろうか。


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