コラムの時代の愛−辺境の声−

2018年6月24日

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 無人島ものにイタリア映画の「流されて」(1974年)がある。ヨットが難破し、無人島に流れ着いた貴婦人と召使いの男。気位の高い女は次第に男の荒々しい生存能力に屈服し、それまでいた社会での上下関係が逆転する。彼女は一時、奴隷のような存在になる。それでも2人は徐々に相手をかけがえのない存在と認め、あらゆる通念を乗り越えた、男女の深い関係になっていく。

 「流されて」はそれまで抱いていた常識や規範を互いにはぎ取った末の、人間同士の性愛、エロティシズムが生々しく描かれていた。

 一方、「死の谷間」はどうだろう。最も高い教育を受けた科学者だった中年男は、たった3人しか残っていない世界で依然、人種差別の問題を引きずっている。

(C)2015 Z4Z Film Production UK Ltd. All rights reserved.

 一方の彼女はもっとはっきりしている。たった3人でも、持続可能は新たな世界を築いていきたい。共存したい。それだけである。彼女は、中年男も、若い男も同時に愛することができる。たった3人なのに、何をつまらないことで諍いをするのか。人種の話? 何を言っているのかと。

 中盤、3人が妙に盛り上がり、池に飛び込み大はしゃぎをする場面がある。もしかしたら「楽園」のような世界があったかもしれないと思わせる一コマだ。アダムとイブと美青年、3人の楽園が。

 原作「死の影の谷間」は、童話、おとぎ話を得意とした米国の作家、ロバート・C・オブライエンの死後、家族が続きを書いてまとめた遺作だ。そこでの登場人物は男女2人だけだが、やはり分かり合えないまま、取り残される人間が描かれている。

 人間はこんな状況に追い込まれても共存できないのか。分かり合えないのか。譲り合えないのか。いや、こんな極限状況だから、本来のエゴが出てくるのか。

(C)2015 Z4Z Film Production UK Ltd. All rights reserved.

 彼女を中心に、若い男と中年男がまとまり、共に暮らすことがなぜできなかったのか。性愛で言えば、「一妻多夫」でもいいし、男2人の性愛が成立してもいい。そのとき、その場で、どうにでもなり得る緩い関係、自由さがあってもいいではないか。

 なぜ、男であることに、そして自分の肌の色に、終末になってもこだわり続けるのか。

 そんなことを考えさせる映画であった。そして、人間とはそれほど哀れで、どうしようもない存在なのかと思わせる、一種、哲学的な作品と言える。

 (「死の谷間」は東京・新宿武蔵野館で公開中、以後全国順次ロードショー=アイスランド、スイス、米国合作、98分)

  
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