生まれたばかりの赤ちゃんは何も話せないのに数年後には母語を話すことができるようになっている。大人になって外国語を勉強してもなかなか身につかないというのに。当たり前じゃないかと思われそうだが、よくよく考えるとすごく不思議なことだ。子どもはいかにして母語を身につけるのか、その過程で何が起こっているのか。またその際に大人たちはどう接していくことが大事なのか。『ちいさい言語学者の冒険――子どもに学ぶことばの秘密』(岩波書店)が話題の言語学者で、東京大学総合文化研究科・広瀬友紀教授に話を聞いた。
――人はどういう過程を経て母語を獲得するのでしょうか?
広瀬:子どもにとって、母語との最初の出会いとは、親をはじめ、周りから耳に入ってくる言語音。様々な音に触れるものの、その情報の「さばき方」は最初からわかりません。つまりその言語で使われる音は何通りか、とか、微妙に違う範囲のどこからどこまでを同じ音とみなす、などの前提知識のことです。たとえば、今聞いた音は以前聞いた音と違うものとして分類すべきなのか、あるいは、「ちょっとだけ違った音」は同じ音のバリエーションや個人の癖、次の音の影響を受けて違う音に聞こえているけどあくまで分類としては同じなのか、などについて情報がないところから、自分で答えを見いだしていくのです。
さて、皆さんもよく「生まれたばかりの赤ちゃんはどんな音も聞き分けられる!(だから早期教育を!)」と謳う語学教材の広告を目にしたことがあると思います。よく例に挙げられるのが英語の/L/と/R/。広告ですから、これらを聞き分けられない大人は惨めだね、やっぱうちの子には語学の早期教育を!という展開が期待されてますよね。でも、母語になくて外国語にある特定の音の間の区別が分からない大人は決して情けなくありません。これは区別が「できない」というよりも、日本語ではこれらの音は別カテゴリには分けないため、「『区別しない』ことを時間をかけてわざわざ学習した結果」なのです。
――英語の/L/と/R/の聞き分けができないことで自虐的になる必要はないのですね!
広瀬:そのとおりだと思います。むしろ胸を張っていいんじゃないかと。
さてやがて、子どもは少しずつ語彙を手にするようになります。音の連続の中からゆくゆくは単語を取り出すためには、一つひとつの音を特定したその次に、分節といって音の連続を何らかの単位で区切っていくという作業が介在します。ここで用いられる単位は、言語ごとに違い、日本語では「拍」(モーラ)という単位です。原則的に日本語の仮名は、1拍に対応できるようにできています。たとえば、日本語では「どん」は「d-o-n」を「do」と「n」の2拍にわけますし、直感的にはそれぞれの「拍」があたかも同じ長さで扱われるようにみなされます。だから五・七・五では「do」も「n」も同じように当てはめられるわけです。
一方、他の多くの言語では「don」で一つの音節(シラブル)になります。言語によって、使われる単位が違うにせよ、この「聞こえてきた音を然るべき単位で区切る」作業は、我々が連続音声の中から単語を取り出す作業で無意識に行われているものとされています。この「単位」の特定と習得(日本語なら「拍」)は、幼いうち、といってもある程度の時間をかけて完成するようです。