日本を代表する名門高校はイノベーションの最高のサンプルだ。伝統をバネにして絶えず再生を繰り返している。1世紀にも及ぶ蓄積された教えと学びのスキル、課外活動から生ずるエンパワーメント、校外にも構築される文化資本、なにより輩出する人材の豊富さ…。本物の名門はステータスに奢らず、それらすべてを肥やしに邁進を続ける。
学校とは単に生徒の学力を担保する場ではない。どうして名門と称される学校は逸材を輩出し続けるのか?月刊誌Wedgeでは、連載「名門校、未来への学び」において、名門高校の現在の姿に密着し、立体的に伝えていく。そこで、ここでは該当校のOB・OGに当時の思い出や今に繋がるエッセンスを語ってもらう。
今回取り上げた名門校は、2006年に中高一貫の小石川中等教育学校に生まれ変わった、1918年創立の都立小石川高校だ。巣鴨や千石に近い、落ち着いた都心の文教地区にある。旧制府立一中(現日比谷高校)に対抗し、初代校長の伊藤長七が打ち立てた校訓「立志・開拓・創作」の精神に則り、開校当初から理数教育に力を入れてきた。Wedge11月号「名門校、未来への学び」でも、スーパーサイエンスハイスクール(SSH)の拠点校として課外活動も充実する、同校の物理研究会ロボット班メンバーらに焦点を当て、創立以来続く、伝統のイノベーション気質を伝えている。
電通クリエイティブ局で活躍後、1999年に独立し、日本初のクリエイティブエージェンシー「TUGBOAT」を3人の仲間とともに設立した岡康道さんも、イノベーター魂で溢れた人物だ。当時の広告界では珍しく、親会社の資本を入れず、花形部署ごと独立してしまったのだから、業界は騒然となった。そして、彼らの作る広告はことごとくヒットし、主要な賞も総嘗めにした。
大手代理店内において、クリエイターが現場で働けるのは40代がギリギリの線。大抵のベテランは若手に活躍の場を譲り、マネジメントに徹するのが常識のところ、すでに還暦を過ぎた岡さんは今なお、現場で率先して指揮を執る。そのダンディストぶりも変わらず、幾多の後輩たちの尊敬を集めている。そして岡さんは、そんな自身の資質の多くが「高校時代に培われた」と語って憚らない。
「当時のクラスメイトとは、同窓会分科会として、毎年正月に集まってますよ。今の学校にも(親友でコラムニストの)小田嶋隆との対談で、2人とも所属していた陸上部の部室を訪ねたりしたけど、まるっきり別の学校のイメージ。大体、『こんにちは!』って、生徒たちも明るくてハキハキしている。一方、僕らは斜に構えてたからねぇ(笑)。
まぁ、当時の進学校ってみんなそんなもんでしょ。1972年入学だから、まだバリケード封鎖もされていて、政治的な感じが漂っていた。俺たちも読書会などを自発的に開いていたし。セクトと対抗するためにも、自分の立場をはっきり語れるようになろうとね。
そこでわからないなりに、マルクスからヘーゲル、カントと読み継いで、哲学史みたいになっちゃうけど、分担を100〜150ページずつ決めて、レジュメを作って発表するんですよ。知的アキレス腱が切れるほど背伸びしてたなぁ。そうやって受験に関係ない本ばっかり読むんです。受験勉強してるヤツは恥ずかしいという空気もあった。
今から思えば残酷なギャグだけど、先生も『どうせみんな東大に行くんだから』と持ち上げて、あまり身を入れて授業しない(笑)。だから、浪人が多かった。それでも東大に行こうとするんだよね。僕は天の邪鬼で京大志望だったけど、担任には二浪しても無理だと言われてた(笑)。早慶の附属を蹴って入学したのに、結局は浪人して早慶に入る——みたいなヤツらばっかだった。でも、常に考えよう、学ぼうという雰囲気が校内にあった」