大学ラグビーを軸に社会人が台頭
田村:社会人ラグビーは1949年(昭和24年)に第1回の全国社会人大会が、近鉄、東芝、配炭公団の3チームによって行われ、その後、九州電力とか八幡製鉄とか、地域と繋がった企業が強くなっていきます。
一方大学ラグビーは東西大学対抗戦を経て、1965年(昭和40年)に第1回の全国大学選手権が始まります。
また1960年(昭和35年)に日本選手権の前身であるNHK杯が生まれ社会人と大学のトップが競うようになりました。その後、昭和38年に日本選手権と改められ長く、社会人と大学生のトップチーム同士の対戦として国内で人気を博していきます。当時はチケットが買えないほどの人気でした。
――勝負事には栄枯盛衰がつきものですが、大学生と社会人の間にはどんなドラマがあったのでしょうか。
田村:日本選手権はしばらく社会人と大学生が勝ったり負けたりを繰り返すのですが、徐々に社会人が力を付け、新日鉄釜石の7連覇や神戸製鋼の7連覇に代表されるように社会人が国内のトップに立つようになりました。
また、近鉄やリコー、東芝なども、ある一時代をリードして連覇や3連覇などの黄金期がありました。リコーは黒いジャージですから「和製オールブラックス」と呼ばれたりしていたのです。
新日鉄釜石や神戸製鋼の7連覇の最中はラグビー人気が特に高まり、新日鉄釜石の連覇に地元釜石は沸き返りましたし、地方を力づけました。
ですが、大きく取り上げられる新日鉄釜石や神戸製鋼でも、人気という点では圧倒的に大学ラグビーの方が高く、早慶戦に何万人、早明戦に何万人入りましたと大きく報じられる一方、社会人は全国規模の大会はお正月前後の全国社会人大会しかなく、決勝戦以外はそれほど大きな記事になることもありませんでした。
――毎年日本選手権はシーズンの集大成として大きく報道されました。特に新日鉄釜石は完成形とは言わないまでも、「北の鉄人」と称され強いラグビーチームの象徴的な存在でした。優勝した翌日に溶鉱炉の前で仕事をしていたと報じられた選手がいたと記憶しています。不器用で誠実な様を反映するエピソードだと思います。
アマチュアリズムが独自の文化と魅力を作る
田村:新日鉄釜石といえば東北の高校出身者の集まりの中に明治大出身の森重隆さん、松尾雄治さんはじめ何人かの関東大学の有名選手が加わって、釜石に独特の文化を作り上げていきました。
地方で密閉された中だからこそ生み出されるものがあって、その文化が愛されました。
そんな釜石を倒そうとするチームが出てきて異なる取り組みを始めるんです。神戸製鋼に限らず、リコーや東芝、トヨタなどにスター選手が入って強化されて、いい形の競争の中からそれぞれのチームに異なる文化が育っていきました。
そんなチームが釜石を倒そうとチャレンジするのですが、それを跳ね返して、跳ね返して、跳ね返して連覇を重ねていきました。
後年、神戸製鋼が7連覇を達成するのですが、都会的な神戸に対して泥臭い三洋電機が真っ向勝負を挑んで何度も跳ね返されるという時代もありました。
同じラグビーでも競技を離れたところにドラマがあって、それが人気に繋がっていたのだと思います。