日韓関係の混乱はとどまるところを知らない。およそ20年前の今頃も収拾がつかないのでないかと思われ事件が起きた。実際、大統領就任予定の金大中氏が国のことを思うと心配で夜も寝られないと発言している。
その時期、4年間もソウルに駐在し何度も青瓦台(大統領府)や、漢江の南側の国家行政新都市の財政経済院(大蔵省)に呼ばれたので、当時を鮮明に覚えている。
韓国大統領選挙の年、1997年はアジア通貨危機の年となってしまった。通貨危機の原因は米国が短期金利であるFFレートを引き上げたことによって、新興国に向かっていた世界の資金が一斉に米国に戻り始めたことによる。それを知って、投機筋は弱い通貨を狙い撃ちし、結果としてインドネシアは政情不安と相まって、ジャカルタから危機の狼煙が上がってしまった。
当時、外貨準備の不足から韓国問題も囁かれていたが、続いて危機が伝播したのはタイとなった。IMF(国際通貨基金)の介入が危機対策のモデルとなってしまい、現在ではこのスキームに対する批判もあるが、当時はカムデウッシュ専務理事のもと危機対応がなされたていた。
この初冬の季節、大統領選挙が終わって年明けに正式就任となる金大中新大統領をあらゆる危機が襲ったのだ。
上髭下髭をとっても、1ドルが900ウォン程度であったのが短期間で2500ウォンまで急落したことで、韓国に改めて危機感が走った。日本でいえば、今日、明日に1ドル300円となったようなものだろう。
当時、日本で買えば10万円程度するデュポンのライターと万年筆を為替の下落に価格の変更が追い付かなかったようで、手持ちの円を韓国ウォンにかえて3万円で買った記憶がある。ソウルの高級店での話だ。
韓国では人々は驚き、困り果て、何をしてよいのかという状態のなか、外貨不足と大不況という混乱の旧正月を迎えたのだが、そのころ正式にIMFの管理下入ってしまった。その時期、IMFの下に入るのは恥だという意見が多く、老婆が退蔵していた金を国に寄付する話などがあちこちで紹介されたが、結果的にIMF体制となってしまった。
むしろIMF下では国民はまとまり、“IMF”と叫べば、店では値引きしてくれたり、タクシーの相乗りをしたり、ほかにも風物詩となったものもある。
大宇グループを中心に財閥の解体が進み、社員を“名誉退職者”と呼びながら解雇が拡大していた。少ないながら退職金が入った中年男性は、家族に退職を告げることができず、スーツで家を出て、ソウル近郊の山に登り夕刻帰宅する山族がうまれ、麓でカバンとジャケットを預かる商売まで発生していた。
しかし、よくできたもので韓国ウォンが急落したことで、韓国製品の国際競争力がさらに高まり、金大中政権末期には、すでに危機を完全に脱している。
現在は、いわゆる徴用工問題で日韓二国間では大きな政治外交問題となっているが、韓国での長い経験を踏まえて穿った見方をしてみよう。
そもそも朴正熙大統領暗殺以降、日韓関係が大きく悪化したのはいわゆる“教科書”問題がある。1980年台初めのころだ。その後、慰安婦問題が起きている。
米国の短期金利は1980年当時20%にまで上昇し、中南米は経済危機となった。新興国から米国に安全な高金利をもとめて還流したからであろう。そして韓国経済はその影響をもろに受ける体質であるが、同時進行で日本批判が起きているのだ。
今回も同じセオリーで語れないだろうか。すなわち、経済的に国民が圧迫感を感じ始めたところで、あれほど改善していた日韓で、徴用工問題をテーブルに乗せることで、多くの韓国民はナショナリズムに目覚めるだろう。日本側でも同様なことが起こる可能性はあるが当面それは忘れる。