店の地下に鳥を飼って毎朝絞めた
創業は明治42年(1909)。店の歴史について、哲夫さんが説明する。
「源一郎の実家は千葉県茂原(もばら)で呉服屋をやっていましたが、生糸の相場で失敗。それで学業は諦め、日本橋髙島屋そばにあった末廣(すえひろ)で働きだしました。京都出身の人が始めた、鳥のソップ炊きを出す料亭です」
ソップ炊きとは、鳥ガラをゆっくりと煮て取ったスープで具を煮込む鳥鍋のことだ。
「やがて独立を認められて、新橋に開業。店名は修業先の末と自分の名前から付けました。末廣から独立した店は他に4軒あって、みな末の字を付け、料理の内容、仲居の着物などが同じ。末廣一派と呼ばれていました」
開店直後から人気を博し、大正10年(1921)、今の場所に間口9間(16・36メートル)、木造3階、地下1階という豪華な店舗を建てた。これを本店とし、最初の店は仲(なか)店と名付け、2店体制としたのだ。
「本店の地下に鳥を飼い、朝に肉質を確認して絞めたんです。ボイラーがあって、鳥を湯引きしたり、1階に風呂を用意したり。お客様は風呂に入って浴衣に着替えてから、宴席に向かわれました」
大正12年の関東大震災で倒壊したが、すぐにほぼ同じ作りの店舗を再建。さらに昭和8年(1933)には銀座の資生堂裏に3店目を出した。家具などの調度品は特注、入口そばにウェイティングバーを設(しつら)えたという。この出店に伴い、仲店の料理を魚中心に変更。3店舗で鳥と魚を融通し合った。源一郎氏は毎日、一番風呂の朝8時と正午に銭湯に出掛けて地域の旦那衆と情報交換を行い、経営に生かした。
戦時中、源一郎氏は在郷軍人会会長として、出征の時には軍服を着て送り出した。昭和17年、銀座店の土地と建物を国鉄に貸すことにした。
「銀座店は奇跡的に戦争で焼けなかったんです。でもどういう契約だったか分かりませんが、戦後、戻ることはありませんでした。本店と仲店は焼けてしまいすべて失いましたが、すぐに粗末な小屋を建て、2代目で私の父の規矩男(きくお)が本店、その弟の三郎が仲店の営業を始めました。焼き鳥を出す居酒屋みたいなものです。父は食材の買い出しに地方に出掛け、何度も警察に見つかり没収されたそうです。食料のない時代ですから、店は繁盛。建て増し、建て増しを続けていきました」