文豪・谷崎潤一郎は明治45年(1912)、大阪毎日新聞から原稿執筆の依頼を受けて、京都に向かった。
そうして書き上げた『朱雀(すざく)日記』に、魅力的なフランス料理店として登場するのが「萬養軒(まんようけん)」。初めて京都の地を踏み同紙京都支局を訪れた谷崎を、春秋(はるあき)という人物が昼食に誘うシーンだ。以下、同書より抜粋する。
案内されたのは、麩屋町(ふやちょう)の佛國(ふっこく)料理萬養軒と云ふ洋食屋である。近來(きんらい)京都の洋食は一時に發達(はったつ)して、カツフエ・パウリスタの支店までが出來(でき)たさうな。此處(ここ)の家もつい此の頃、醫者(いしゃ)の住居を其(そ)れらしく直して開業したのだが、中々評判がいゝと云ふ。矢張(やは)り日本造りの、疊(たたみ)の上へ敷物を布(し)いて、テーブルや椅子が置いてある。5坪程の奧庭に青苔が一面に生えて、石燈籠の古色蒼然たる風情など、洋食屋には少々勿體(もったい)ない。
京都の洋食事情、さらには「萬養軒」の内装や雰囲気もうかがえて興味深い。
「開業したのは、明治37年。京都初の西洋料理店です。アメリカに住んだ経験のある伊谷市郎兵衞(いたにいちろべえ)が、京都の方々にフランス料理を召し上がっていただきたいと開いた、と聞いております。場所は麩屋町の錦小路を上がったところでした」
と、4代目店主の伊谷快児(かいじ)さん。
もともと伊谷家は木綿問屋を営んでいた。店主は必ず市郎兵衞と名乗ることになっており、料理店を開いたのは7代目だ。
その息子の周(しゅう)氏が開業の経緯について記した文書によると、7代目が若主人として経営に当たっていた明治33年に、全国的な不況の影響で木綿問屋が倒産してしまった。
市郎兵衞氏は、今後の身の振り方を考えるべく単身渡米。周氏はその年に生まれたが、生後間もなく滋賀県に住む人に預けられ、両親とは離ればなれの生活を余儀なくされた。周氏が一緒に暮らすようになったのは大正9年(1920)。20歳になり京都に戻り、「萬養軒」でコック見習いを始めたのだ。後に周氏は2代目店主となるが、思うところがあったのだろうか市郎兵衞の名は継がなかった。