2024年11月25日(月)

解体 ロシア外交

2011年9月1日

ロシア側の「正当化」の論理

 この背景には、ロシア首脳陣や一部のロシア人の、対日戦におけるソ連のスタンスの「正当化」の論理があるといえるだろう。

 たとえば、ロシアのイタル・タス通信のゴロブニン東京支局長は、日本とロシアの第二次世界大戦の終わりごろについての解釈は大きく異なるという。彼は、「ロシアでは社会の多数の人々は、日本が当時、帝国でナチス・ドイツとの同盟国であり、旧ソ連を脅かしていたと考えている。だから、1945年8、9月の(旧ソ連の)作戦に対しても、この大枠で捉えている。つまり、日本が領土を失ったのは、正当な罰だという考え方だ。」(『産経新聞』2011年5月4日)と述べるが、この見解が日本の見方と大きく異なることは明白である。

 また、同氏の主張が、上述のサルキソフ氏が述べるロシア人の世論と大きく異なっていることも興味深い。この違いの理由は何だろうか? イタル・タス通信は、ロシアの国営通信社であるので、もしかしたら、イタル・タス通信側が、政府の意をくんで、世論を創出しようとしているのかもしれない、というのは考え過ぎだろうか?

シベリア抑留問題

 他方で、第二次世界大戦の結果の如何にかかわらず、日本がロシアに対して強く主張し続けるべき問題がある。シベリア抑留問題である。

 シベリア抑留とは、第二次世界大戦直後に、ソ連が多くの日本人を、日本に復員させることなくシベリアや中央アジアなどソ連各地に抑留して、非人道的な強制労働を行わせたものである。日本人抑留者のほとんどは、旧日本軍の軍人(主に関東軍だが、北朝鮮・樺太・千島などソ連が侵攻した地に展開していた陸海軍部隊も含まれる)だったが、民間人も含まれていたという。日本政府の推計によれば、抑留者数約56万人(約60万人以上という説もある)のうち、全ての抑留者の帰還が終わる1956年までに約5万3千人(約6万9千人という説もある)が死亡したという(日本政府が推計する抑留者や抑留死者数は、帰還者や家族の聞き取りを基にしたもので、少なすぎるという見解が多く出されている。なお、これまでロシアから返還された遺骨は2万柱である)。これは、氷点下70度になる場所もあったような極寒の地で満足な食事も与えられず、森林伐採や鉄道建設などの重労働で酷使されたためである。本稿では、その内容の詳細について述べる紙幅の余裕がないが、シベリア抑留については多くの著書があるので、それを参考にしていただきたい。

 なお、日本人の旧ソ連での労働の質は極めて高かったとされている。たとえばウズベキスタン・タシュケントのナヴォイ劇場は日本人抑留者が建設したものであるが、大地震の際に、ナヴォイ劇場だけが無傷で残ったとして、日本人の仕事の質の高さが今でも言い伝えられている。*注3

ナヴォイ劇場と記念碑(筆者撮影)
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 このようなソ連の抑留や、捕虜の速やかな送還を明記した「ハーグ陸戦規則」にも、武装を解除した日本軍兵士の帰宅を定めた「ポツダム宣言」にも反するものだが、ソ連は長らく本問題に口を閉ざしてきた。だが、ソ連の最後の大統領だったゴルバチョフが初めて「哀悼」の意を表明し、ロシアの初代大統領エリツィンが初めて93年10月に正式に「ソ連全体主義の犯罪」だとして、正式に「謝罪」した(東京宣言)。だが、その後のプーチン、メドヴェージェフは言及を避けている。

*注3:拙著『強権と不安の超大国・ロシア』光文社新書、2008年 を参照されたい。


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