2024年11月22日(金)

解体 ロシア外交

2011年9月1日

 実は、「対日戦勝記念日」の復活の動きは10年以上前からあり、ロシア連邦議会でもそのような動きが出たことがあったが、これまでは政府がそれを抑制してきた。しかし、昨年は、大統領府の会議で高い支持が得られたということで、大統領府が支援者となり、これまでとは異なる様相が見られるようになったのである。

 そして、昨年9月には、中露が第二次世界大戦での「対日戦勝65周年に関する共同声明」を出すに至る。メドヴェージェフ大統領は、9月26日から3日間の訪中を行い、1904~05年の激戦地だった大連・旅順口を訪問し、日ロ戦争および第二次世界大戦におけるソ連軍・ロシア人の犠牲者追悼行事に参加、北京で首脳会談を行なって共同声明を発表した。その共同声明は、ロシア(当時はソ連)と中国は軍国主義の日本およびファシズム政権のドイツに対して共闘した同盟国であり、対日戦勝の65周年をともに祝すという趣旨となるが、とくに、中露両国が第二次世界大戦の結果を同様に受け止め、その見直しはあり得ないことを盛り込み、両国が言うところの歴史の真実を共に守っていくことが重視されている。*注1 そのため、11月にはロシアのメドヴェージェフ大統領がソ連・ロシアの最高指導者としては初の北方領土訪問を行うに至り、以後、多くのロシアの重鎮たちが北方領土を訪問するようになった。

 さらに、ラブロフ外相は今年の2月15日に、「日本が世界大戦の結果を正確に認めない限り、平和条約交渉は無意味だ」と対日牽制を行っている。ロシアは、北方領土がロシア領になったのは、第二次世界大戦の結果、つまり日本の敗戦によるものだという主張を従来からしており、改めて、日本に対して北方領土の返還主張をやめるよう示唆してきたと言える。

 このような経緯から、去年よりロシアの対日姿勢が急に硬化したことが感じられるのである。

 ただし、9月2日が「対日」という言葉を含まずに「第2次世界大戦が終結した日」と命名されたことには、日本への一定の配慮が感じられる。それは、2011年3月11日に、9月3日を「日本帝国主義者に対する勝利の日」と定める法案が提出された際に、圧倒的与党である「統一ロシア」が反対し、否決されていることからも明らかである

ソ連は本当に戦勝者か?

 しかし、ここでソ連は本当に戦勝者であったのかという疑問が生じる。「対日戦」はソ連が「日ソ中立条約」を一方的に破棄し、*注2 つまり国際条約に違反した形で、長い戦争で疲弊したところに原爆というとどめを刺されて死に体となった日本に対して、8月8日に宣戦布告。広島に続き、長崎に2発目の原発攻撃を受けた8月9日から、大規模な攻撃を開始し、千島列島・南樺太・北朝鮮全域・満州国を次々と制圧・占領。幸いに実現はしなかったが、日本敗戦の折には北海道の占領権まで主張するに至ったという、いわば火事場泥棒的な戦争であった。そして、そのことは、ロシア人も認めるところであり、実際「第2次世界大戦が終結した日」への支援の声はそれほど大きくないようだ。以下に、同記念日の制定に対するロシア世論の一部を紹介しよう。

・日ソ戦争は、日本ではなくソ連の方から正当な理由なく攻撃を仕掛けた戦争である。
・日本の敗戦によってソ連は南サハリンとクリル(千島)列島を取り戻した。しかし、その領土のすべては、必ずしも日露戦争(1904~05年)で失ったものではない。
・日ソ戦争で戦死したソ連兵は約8200人。ドイツとの戦争における戦死者の数は数百万人単位であり、それと比べると桁違いに少ない。
・対日戦争はよく計画され、実行されたものであった。しかし、国民の感情に火をつけるほどの「悲劇と栄光の出来事」とは言えない。そのため、国民の中にこれを記念しようという声は沸き起こっていない。
(以上、コンスタン・サルキソフ「「対日戦勝記念日」制定にロシア国民の反応は?」、JP Press 2010年4月8日)(http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/3179)より引用)

*注1:拙稿「尖閣諸島問題は北方領土問題に影響するか?」ASAHI WEB RONZAシノドスジャーナル(http://webronza.asahi.com/synodos/2010092800001.html)を参照されたい。
*注2:ソ連にとっては、ナチス・ドイツとその同盟国である日本からの東西両面からの攻撃を避けるため、日本にとっては北方の安全保障を確保するという相互の思惑のもと、1941年4月13日にソ連の首都・モスクワで調印されたもの。日ソ両国の相互不可侵及び、一方が第三国と軍事行動の対象となった場合の他方の中立等が取り決められていた。しかし、41年6月22日に、ナチス・ドイツがソ連に対して「独ソ不可侵条約」を破棄して奇襲攻撃(バルバロッサ作戦)をかけ、独ソ戦が開始されたとき、日本も対ソ連攻撃の準備をしたが、踏みとどまった経緯がある。だが、45年2月4日に、米・英・ソの首脳がヤルタ会談を行い、対独戦後処理とソ連の対日参戦についての密約である「ヤルタ秘密協定」を締結した。そして、それに従って、ソ連は対日参戦をするに至るが、ここで、ソ連は「日ソ中立条約」への違反を犯すことになる。実は「日ソ中立条約」の有効期限は5年間であり、その破棄には満期1年前の不延長通告を必要とするとの取り決めがあったが、その満期日は46年4月だった。だが、日本の敗戦の可能性が高まってきたのを受け、ソ連は45年4月5日に条約の不延長、すなわち条約が満期を迎える46年4月での破棄を通告してきたのである。確かに、条約を延長しない旨の通告はあったが、条約失効まで約8ヶ月を残す段階で、ソ連は対日宣戦布告をしたわけであり、それは間違いなく条約違反であった。

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