バルカン半島ではフツウ? モンテネグロの支配者の変遷
世界遺産の城壁の町コトルはアドリア海の深い入り江の奥に位置する。旧市街には中世からの歴史建築物が並んでいる。その一つ旧フランス劇場は現在高級ホテルとなっている。マネージャーによるとナポレオン一世の時代に劇場として建築された。
ナポレオン戦争以前のモンテネグロの海岸地帯はベネチア共和国の支配下にあったという。ベネチア共和国はナポレオンに征服されるまで中世から1000年も地中海世界の貿易を支配してきた。コトルもその支配下に置かれていたようだ。
ちなみにベネチアという一地方都市がなぜ海洋都市国家として地中海世界の覇者として1000年も繁栄できたのか、塩野七生の名著『海の都の物語』に詳しい。
社会主義体制へのノスタルジア
コトルのホステルのオーナーのデミル氏によると、モンテネグロは人種的にはスラブ系で宗教もセルビア正教が大多数で言語もセルビア語とほぼ同じ。それゆえ現在でもセルビアとは近い関係にあるという。
デミル氏は高校までユーゴスラビア社会主義連邦共和国で育った。彼の記憶では社会主義体制下のモンテネグロは社会が落ち着いて治安が良く、物資も比較的豊かであったという。
セルビアはユーゴスラビア社会主義連邦の中核
ユーゴスラビア社会主義連邦ではセルビア、クロアチィア、モンテネグロ、スロベニアなどのセルビア系民族(=スラブ系民族)共和国が中心となってイスラム系住民を含むマケドニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナを包含していた。
1990年以降各共和国が次々と独立を宣言すると、ユーゴスラビア社会主義連邦の中心であったセルビア共和国は独立を阻止するべく武力を行使。いわゆるユーゴスラビア紛争となった。
中でもコソボやサラエボでの虐殺、民族浄化という残虐行為によりセルビアは全世界の非難を浴びた。それでは“加害者側”のセルビア人はどのように1990年以降の社会変化を評価しているのだろうか。
ユーゴスラビア社会主義連邦の崩壊を経験した“あるセルビア人技師の半生”
3月12日。コトルから自転車で入り江に沿ってサイクリング。小さな桟橋で釣りをしている男性に遭遇。昼時だったので一緒に桟橋でランチ。
男性はイヴァノビッチ氏43歳、セルビア共和国出身のセルビア人。ベオグラード南方のクルシェヴァッツという重工業都市の出身。父親は国営工場の機械技術者、母親が高校の数学教師という中流家庭で育った。
子供の頃より絵画が好きだったが、成績が良かったので芸術的な建物を設計しようとベオグラード大学の建築学科に進んだ。
卒業後は経済の混乱が続き大きな設計の仕事がなく、2010年に家族と一緒にモンテネグロの首都ポドゴリツァに移り建設会社で施工管理の仕事をしている。
イヴァノビッチ氏は“思慮深い知識人”という第一印象。同氏によるユーゴスラビア社会主義連邦と1990年以降の展開に関する分析は興味深かった。“加害者側から見た歴史評価”ということになろう。
“ユーゴスラビア社会主義連邦”形成の歴史的正統性
イヴァノビッチ氏によるとセルビア、モンテネグロ、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、コソボは言葉がほとんど同じであり普通に会話ができる。さらにセルビア人とマケドニア人も言葉は少し異なるが意思疎通は可能という。
バルカン半島のスラブ系人口は約2200万とマジョリティーとのこと。彼によるとそもそも“ユーゴスラビア”という旧国名は「南のスラブ人の国」という意味で汎スラブ主義という民族主義的背景がある。
彼は歴史や文学にも造詣があり、スラブ系民族がオスマントルコ支配打倒のために蜂起したことから勃発した19世紀後半の露土戦争に言及。そしてロシアの文豪トルストイが青年士官としてコーカサス地方で軍務についていたことやクリミア戦争に従軍したことがトルストイの作品に反映されていると解説。『アンナ・カレーニナ』でヒロインのアンナの死後、恋人のブロンスキーが義勇軍を率いてクリミア戦争に従軍したエピソードを紹介。セルビア人が素朴に抱いている親ロシア感情を吐露した。