アルバニア人はイタリアが大好き?
3月2日。アルバニアのアドリア海沿いの港町ブローラを目指して山越え。海抜ゼロメートルから1200メートルの峠まできつい勾配のつづら坂を登り、その後は緩やかに下り海岸線の平坦な国道を30キロ北上するという長丁場。
自転車を押し歩きでつづら坂を登るにつれて、小雨がみぞれ雨に変わってきた。さらに登り始めてから三時間後に高度1000メートルを超えると本格的な吹雪となってきた。
午後1時を過ぎると目標としていた峠のレストランが遠くに見えて来たが、まだ1時間くらいかかりそうに思えた。そのとき大型バンの商用車が真横に停まって運転席より大男が降りてきた。彼は車に乗れと身振りで指図した。
大男は荷物を含めて30キロ近くになる自転車を軽々と抱えて大型バンに積み込んだ。助手席に運転手の相棒がいた。二人とも英語は片言程度だが、二人はイタリアへ出稼ぎ経験がありイタリア語は流暢だ。
アルバニアは1990年の民主化・市場経済導入以降、隣国イタリアとの関係が緊密になっている。二人によるとイタリアは未熟練労働者不足を補うためにアルバニア人に対しては労働ビザ発給枠を特別扱いしているようだ。このためアルバニア人の若者は望めば容易にイタリアで就労できるという。
アルバニアではイタリア語を話す人が多く、フツウのおばさんでも外国人と会うとイタリア語を話せるかと聞いてくる。日本人のオジサンに対しても「パルラ・イタリアーノ」(イタリア語を話せますか)なのである。
アルバニアの海外出稼ぎ事情
アルバニア人によると若者の半分近くが海外で出稼ぎしているという。少し古いが2012年度の途上国の出稼ぎ労働者による本国への海外送金の対GDP比率を比較したデータがある。
近年日本でも出稼ぎ労働者が急増しているネパールではなんと22%にも達する。アルバニアはフィリピンと同程度で約10%となっている。単純計算すると国民の10人に1人が海外出稼ぎしていることになる。
アルバニアはギリシア・ローマ文明圏のド真ん中
ギリシアとイタリアに挟まれたアルバニアのアドリア海沿いの港町は古代ギリシアの植民都市として発展。さらにローマが地中海の覇権を握るとアルバニアの海港都市はローマ帝国のバルカン半島経営のゲイトウェイとして繁栄。
こうした地政学的ロケーションからアルバニアは第二次世界大戦では独伊軍の兵站拠点となった。
サランダからアドリア海沿いに北上してブローラ、フィエリ、デュラスと海港都市を訪ねたが、各地の古代ギリシア・ローマの遺跡が往時の繁栄を物語っていた。
フィエル近郊の遺跡アポロニアはジュリアス・シーザーの甥でローマ初代皇帝となったアウグストゥスが留学していた学問都市である。ローマ時代のモザイクがギリシア正教修道院となった建築に残っていた。
デュラスではビザンチン市場、ローマ風呂の遺跡があるが圧巻は巨大な円形劇場(Amphitheatre)である。剣闘士(gladiator)による血生臭い闘いと大観衆の熱狂が彷彿と湧き上がってくる。
アルバニア人はオスマン帝国支配下でイスラムに改宗した。現在でも国民の大半は宗教的にはイスラム教徒である。しかしアルバニア人は精神的にはむしろギリシア・ローマ(Greco-Roman)文明を継承しているように思えた。