2026年3月7日(土)

山師の手帳~“いちびり”が日本を救う~

2026年3月7日

 明日、俺は再び手術台に上がる。

 右肺に残った最後の腫瘍を切除する日だ。大腸を20センチ切り取り、肝臓に散った九つの腫瘍を叩き潰し、左肺の病巣を削ぎ落としてきた。振り返れば、ちょうど1年間のがん戦争だった。普通の人間なら、途中で音を上げても不思議ではない。だが俺はまだここにいる。そして、ついに最終決戦の朝を迎えようとしている。

 入院前、家内と温泉に行った。山奥の静かな宿で湯に浸かり、川の音を聞きながら体を温めた。本来の俺なら、風呂上がりには日本酒を一本空けて、山海の珍味を肴に夜更けまで語り合うところだ。

 だが今回は違う。この戦いの最後の山場だ。勝負師として、やるべきこととやってはいけないことは分かっている。アルコールは飲まない。カフェインも控える。重い食事も避ける。強い運動もしない。体は戦場に向かう兵士の装備だ。整備を怠れば、戦いは始まる前に終わる。そして何より重要なのは、眠ることだ。

GrafikLab/gettyimages

山師の流儀 ―― 不確実性の荒野を歩く者

 相場師、あるいは山師と呼ばれる人種は、常に「不確実性」という荒野を歩いている。一寸先は闇。だがその闇の向こうに、黄金の山が眠っていることもある。その極限の世界で生き抜くために必要なのは、洗練されたチャート分析でも、巨額の軍資金でもない。

 必要なのはただ一つ。自分の身体という機械のコンディションを、冷徹に把握する能力だ。相場も手術も同じだ。冷静な状況判断がすべてを決める。今朝、俺はApple Watchの睡眠データを見た。

 そして思わず笑った。体はもう、戦闘準備を終えている。枕に頭が触れた瞬間、勝負は決まっている睡眠スコアは81点。手術前夜という状況を考えれば、これはかなり高い数字だ。普通の人間なら、不安で寝返りを打ち、夜中に何度も目が覚める。

 だが俺は違った。特筆すべきは、「睡眠効率98%」という数字だ。

これはつまり、ベッドに入ったらほぼ即座に眠りに落ちているという意味だ。普通の健康な人でも、90%を超えれば上出来だと言われる。98%は異常なほど高い。だが俺には理由が分かっている。山師は、ジタバタしない。やれることをやったら、あとは眠るだけだ。明日の戦いのために、細胞を休ませる。それが最も合理的だからだ。

闇の中で鍛えられる免疫の盾

 総睡眠時間は7時間23分。決して長くはない。だが中身が濃い。深い睡眠は1時間16分。理想的な範囲にぴたりと収まっている。さらに興味深いのは、睡眠の構造だ。

 夜の前半に深い睡眠が集中し、後半に浅い睡眠へ移行し、最後に自然に目が覚める。これは医学的に「免疫回復型睡眠」と呼ばれる理想のパターンだ。

 深い睡眠の間、体の中では猛烈な修復作業が行われる。成長ホルモンが分泌され、免疫細胞が動き、傷ついた組織が再生される。肺に腫瘍を抱えながらも、俺の体は静かに、明日の手術に耐える盾を鍛えていた。

肺の奥に眠る「予備兵力」

 次に重要なのは酸素だ。血中酸素飽和度(SpO2)は97.2%。肺腫瘍がある状態で、この数値は悪くない。96%以上が正常とされる。つまり俺の肺は、まだ十分なガス交換能力を持っている。明日、右肺の一部が切り取られる。

 だが残された肺は、まだ戦える。体の中には、まだ見ぬ予備兵力が眠っている。嵐の前の静かな鼓動もう一つ、面白い数字がある。

 起床時の心拍数は59 bpm。普通の人間なら70前後だ。心臓は騒いでいない。むしろ静まり返っている。まるで嵐の前の海のようだ。自律神経のバランスも悪くない。俺の年齢を考えれば、これはむしろ優秀な数字だろう。体はパニックを起こしていない。戦闘前の静寂に入っている。

老兵の眠り

 前日のストレス指標は、少し高かった。移動のトラブルもあったし、手術前の多少の緊張もある。だが、そのストレスは一晩の睡眠でほぼ洗い流されていた。ここで思い出す言葉がある。戦場では、新兵は恐怖で眠れない。中堅兵は興奮で眠れない。

 だが、老兵は泥のように眠る。それが生き残るための唯一の方法だと知っているからだ。俺もどうやら、その領域に足を踏み入れているらしい。

勝負は手術のあとに始まる

 手術そのものの成功率は、今や99%近い。だが本当の勝負はそこではない。呼吸器外科には、こんな言葉がある。

「手術の成功は術後24時間で決まる」

 麻酔から覚めたあと、深呼吸し、咳をし、歩く。それが肺炎を防ぎ、回復を早める。俺には武器がある。睡眠。肺の予備力。そして、毎日6000歩の歩行習慣。これらはすべて、1年間の闘病で積み上げた貯金だ。


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