2024年11月22日(金)

古希バックパッカー海外放浪記

2019年3月17日

突然の訃報に接して

 3月23日。朝方5時過ぎに目が覚めた。スマホに家内からの着信があった。嫌な予感がしてメールを開くと義父の訃報であった。

 急いでスマホで帰国便を探した。動揺しているのかフライト検索が上手くできない。ナイトシフトの受付の青年に事情を話して応援を頼むと快く引き受けてくれた。業務用のパソコンに向かって慣れた手つきで操作。

 数分で翌日早朝ザグレブ発・翌々日午後羽田着のフライトを見つけてくれた。ザグレブ→ミュンヘン→シンガポール→羽田である。

 家内に帰国便をメールして一息ついた。ちょうど4年前の3月にバックパッカー旅を始めてから毎年9カ月以上は海外放浪してきた。大体2~3か月海外をぶらぶらして自宅に数週間戻り、再び次の旅行に出かけるというパターンの繰り返しである。

 年に平均4回長期旅行しているので、いつかは旅先で訃報を受け取ることは覚悟していたが。それにしても90歳になっても普段どおり庭の植木の手入れをして夕方晩酌している義父の姿を見ていたので残念でならなかった。

引きずり降ろされた民族の英雄“チトー元帥”

 気分転換に自転車でザグレブ市内観光に出かけた。ランドマークの大聖堂や青果市場などを見物。最後に国立劇場前にあるはずの『チトー元帥広場』(Marshall Tito Square)を探して走ったが見当たらない。

 ガイドブックの地図の該当箇所を再び走ると『クロアチア共和国広場』(Croatia Republic Square)と標識が立っていた。地元の人に聞いたら数ヶ月前に“政治的理由”で改称したという。
 どうも新生民主主義国家としてEUに加盟したクロアチア共和国としては、チトー元帥を民族の英雄として奉るのは相応しくないという国民感情を反映したようだ。

 ユーゴスラビア社会主義連邦の建国の父であり1980年に死去するまで終身大統領であったチトーは、オーストリア・ハンガリー帝国の現在のクロアチア地方で生まれている。父親はクロアチア人で母親はスロベニア人であったので人種的にはセルビア系ではあるが、セルビア正教徒のセルビア人ではない。

 いずれにせよチトーは出自としてはクロアチア出身のクロアチア人である。それゆえユーゴスラビア社会主義連邦時代から最近まで『チトー元帥広場』が存在したのであろう。しかしチトーはユーゴスラビア連邦の首都ベオグラードでクロアチアを含むバルカン半島を長年にわたり統治した独裁者である。

 ソ連におけるスターリンと出自が似ている。スターリンはロシア帝国の南の辺境であるコーカサス地方のグルジア地方出身のグルジア人である。共産党で頭角を現し、共産党書記長としてクレムリンで広大なソ連を支配したのである。

 チトーは第一次世界大戦でロシアの捕虜となり、戦後直ぐにユーゴスラビア(南スラブ)共産党に入党。ソ連が主導したコミンテルン(国際社会主義運動指導組織)で認められ、1936年からのスペイン内戦ではソ連赤軍司令官の下で従軍。その後バルカン半島でのパルチザン運動を率いて英雄となり、戦後はユーゴスラビア社会主義連邦の首相、大統領、終身大統領として君臨したのである。

 生粋の共産主義者であり、現在のクロアチア共和国の象徴としては相応しくないのであろう。

今でも愛されている悲劇の皇妃エリザベート

 国立劇場は石造りの瀟洒優雅な建物だった。翌月の演目は『エリザベート、シシ』というタイトルのバレーであった。エリザベートはオーストリア・ハンガリー帝国の最後の皇帝フランツ・ヨーゼフ一世の皇妃である。

 当時の欧州上流社会のファッションアイコンである美貌の悲劇の皇妃の生涯はミュージカルとなり日本でも宝塚歌劇団で公演されている。彼女の愛称が“シシ”であった。

 国立劇場の受付で聞くとエリザベート皇妃はクロアチアでも国民的人気があるという。当時オーストラリア・ハンガリー帝国はカトリック教徒のクロアチア人に対して寛大な政策を取り自由で安定した時代であったらしい。

 この広場と劇場は現在のクロアチアの市井の人々の想いを象徴しているように思えた。

  
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