2024年12月22日(日)

WEDGE REPORT

2019年6月5日

問題となったシーン(Osports Photos/AFLO)

 中国四川省成都市で開催されたサッカーのパンダカップ2019での韓国選手の行為が物議を醸し、韓-日-中で大きな話題となった。大会に参加した韓国代表U-18(18歳以下)チームが決勝戦で中国を3-0で下し優勝を果たしたところまではよかったのだが、その後韓国選手一人が、優勝カップの上に足を載せ、トロフィーを踏みつけるかのようなポーズで記念撮影を撮ったのだ。

 この写真がマスコミに報じられると、中国内から大きな批判と反発が起き、反韓感情が拡大化する事態に発展した。事の深刻さに気づいた韓国選手団と韓国サッカー協会は慌てて謝罪、同時に問題を起こした選手を懲戒処分とすると発表したが、中国側の怒りは収まらず主催側は優勝を剥奪、トロフィーを回収するという厳しい処分を下した。

 この事件については韓国内でも選手たちの愚行を叱咤する声がほとんどで、

 「国際的に恥をかいた」
 「マナーやスポーツマンシップの教育が欠如している」

 という批判が相次いだ。韓国人の目にもマナーとリスペクトが欠けている行動に映ったのだ。

 私がこの事件を見て感じたことは二つだった。一つは韓国スポーツ選手たちの「教育問題」、もう一つは中国と日本に対して韓国が見せた行動の激しい「温度差」である。

「勝利」だけを求める「エリート体育」の弊害

 1980年代後半、私が通っていたソウルの中学校には強豪だったテニス部と新生の野球部があった。同じクラスに野球部に所属する同級生がいたが、彼との「接点」は、ほとんどなかった。なぜなら彼は授業にほとんど出なかったからだ。学校には毎日登校するが、そのまま野球部へ直行し朝から晩まで練習だけを繰り返していた。

 つまり教室で行われる「教育」を受けることがなかったのである。それだけではなく、遠足、社会見学などクラスの友人たちと一緒に楽しみ、親交を深めることのできる活動にはほとんど顔を出さなかった。いや、顔を出せなかった。

 彼が授業に出るのは雨が降るなどの理由で練習ができない日しかなかった。彼の学校生活を構成していたのは知識の蓄積と交友関係ではなく、「勝利」と「結果」だけが求められる「戦い」の連続だったのだ。

 彼が授業内容についていけないのは当然で、クラスメートとの交流と接点がなかった彼と私たちの間には共有できる「思い出」といえるものもほとんどない。彼の友人はおそらく同じ野球部員だけだった。

 幼少年期において学校という空間は勉強だけではなく他人との人間関係を築きながら人格を磨いていく場所でもある。だが、幼い選手たちはそのチャンスを与えてもらえなかったのだ。バランスが取れた対人関係と人格形成のチャンスを。

 また、国家代表やプロ選手になれず途中でその道を離れることになった場合、知識と人間関係の「空白」は深刻な副作用をもたらす。大人になってもスポーツしか知らない子どもにとどまる危険にさらされているのだ。

 この問題についてはさすがに韓国内でも懸念の声が高まり、2000年代以降は政府と学校が在学中の選手の「学習を受ける権利」を強調するようになった。一定の出席を義務化し、補講を実施させるなど「学習権」を重視するようになったのだ。

 しかしそれは単に形式的なもので現実はあまり変わってないとの指摘もある。

 例えば、2019年ソウル市教育庁が発刊した「2019年学校運動部業務マニュアル」をみると、学生選手には出席日数の3分の1以下までの欠席を許容している。年間求められる出席日数が190日の場合、63日は出席しなくても修了、卒業を認めるということだ。それに国際大会に国家代表として参加する場合は、欠席日数が3分の1を超えることも許容される。

 しかし、3分の1も学校を休んだ学生が、連続性がある授業内容についていけるかどうかは疑問だ。家で必死になって勉強しない限り、おそらく無理だろう。昔に比べていろいろな制限と新しいルールが設けられたとはいえ、選手たちの教育は依然として死角に放置されているのだ。

 トロフィー侮辱事件は選手たちの過ちであることは間違いないが、正直に言って私は選手たちにも一種の憐憫の情を覚えた。勝利と結果だけを重視する韓国内の風潮の中に放置されている選手たちが被害者とも思われたからだ。私は学校教育の軽視と不在が今回の事件と無縁とは思えない。


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