チャイナ・ウォッチャーの視点

2019年6月19日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]

手のひらを返すように学生批判に転じた華字紙

 学生に対する論調も大きな変化を見せる。

 当初は全面的な賛意を打ち出していたものの、事態が鄧小平ら強硬派の力による鎮静化に向かうに従って、学生に対する批判の色を強め始めた。

 「国家建設の功労者に対するいわれなき批判・悪罵は断固として許されるものではない。学生らがみせた“非礼”は我慢の限界を超えた」と、鄧小平ら革命の古参幹部に対する学生の振る舞いを咎め非難する。また経済制裁に加わった欧米諸国、ことにアメリカを強く糾弾した。

 「(学生らが天安門広場に自由の女神像を建設したことは)アメリカのスタイルを持ち込むことと同じだ。(学生指導者が)アメリカの政治家と互いに連絡を取り合うなら、広範な人民の支持を必ずや失うであろう。(学生らが掲げたスローガンの)『民主』と『人権』に絶対的定義はないし、開発途上国に対する大国による内政干渉の口実になっている。耳に聞こえはよいが、実際には全く役には立たない」

 鄧小平ら強硬派に対する批判、学生らの行動への賛意は事件発生直前までであり、事態が力によって納まるや、前者に対する批判は賛意に、後者に対する賛意は批判へと逆転する。これがタイの華字紙の論調に現れた変化であり、これもまた四捨五入してタイ華人社会の総意であったと見做せるように思う。その時、友人に向かって「変節であり、学生への裏切りではないか」と問い詰めたことがあるが、彼は「これが華人の立場だ」と応えるのみだった。

 当時、事件に遭遇し、北京を脱出して列車を乗り継ぎながら上海にたどり着きバンコクに戻った友人は、「学生は北京指導部内の実態を誤解し、権力闘争に翻弄されたのだ。学生は社会の現実を軽視した。現実から懸け離れている『民主』を理想化し過ぎた。自らの力を過大評価し、余りにも性急に『民主』と『人権』とを求め過ぎた」と語っていた。

「愛国同胞」が窮地を救ってくれる

 じつは1989年、中国政府は戒厳令を2回布いている。1回目は3月のチベットのラッサで、2回目は5月の北京である。

 ラッサの場合は「分裂分子による騒乱を阻止し、社会秩序を維持し、チベット各民族の生命・財産・安全を保障するため」であり、北京の場合は「動乱を断固として阻止するため」というのが、戒厳令を下した理由だった。

 タイの華字紙はラッサにおける戒厳令を支持したが、北京でのそれは当初は支持してはいない。我われの立場からするなら、共産党による人権侵害を意味する点では共通する措置だと思うが、なにが支持と不支持とを分けたのか。

 ラッサにおける戒厳令に対しては、「根本的にいうなら国土分裂主義分子による騒乱を鎮静し、完全なる国家主権を守るためのものだ。海外華人は中国人民と共に戒厳令施行を断固として支持する」と、「国土分裂回避」を理由に賛成している。一方、北京での戒厳令に対しては「戒厳令は愛国民主学生運動への鎮圧を正式に布告したものであり、鎮圧命令を下した者は民族にとっては真の罪人である」とする。もっとも、後には「真の罪人」の措置に賛意を表明することになったわけだが。

 こう見てくると華字紙が好んで掲げる「団結し、安定し、繁栄に向かう中国」という考えに基づくなら、チベットの「国土分裂主義分子」は許し難い。だが天安門広場を埋めた「愛国民主学生運動」は認めるべきだ、ということになるだろうか。ならば華字紙にとっての「中国」は飽くまでも漢族中心の、「団結し、安定し、繁栄に向かう中国」ということになりそうだ。

 かつて天安門事件によって自らが掲げた開放路線が窮地に陥った時、鄧小平は「我が国は海外に数千万の愛国同胞を持つ」と豪語し、欧米各国による経済制裁に断固として立ち向かう意思を表明した。たとえばタイで巨大複合企業集団を率いるタニン・チャラワノン(謝国民)に典型的に見られるように、「愛国同胞」の企業家との間で「双嬴(ウイン・ウイン)関係」を結びながら経済制裁の苦境を乗り越え、やがて経済大国への道を驀進するに至った。

 いま報じられるようにトランプ政権が繰り出す攻勢策に習近平政権が苦慮しているとするなら、おそらく「愛国同胞」のうちの誰かが必ずや「雪中送炭(雪の寒さに震えるヒトに炭を送る=苦境を救う)」を考えているはずだ。「風険投資(ハイリスク・ハイリターン)」である。

 中国に対する固定化された一面的見方を脱する必要を、改めて感じる。華人という存在は、中国に対する多角的な視座を与えてくれると思うのである。

  
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