「台湾語を公用語に」が危険なワケ
台湾は九州と同じくらいの面積の土地に、多民族がともに暮らしている。李登輝の言葉を借りれば「移民国家」だ。
1895年、日清戦争に勝利した結果、下関条約により台湾は清朝から日本へと割譲された。それまで清朝の版図に組み込まれていた台湾であったが、清朝は台湾を「化外の地」として消極的に管理するだけだった。それは裏返せば、台湾は日本に領有されてはじめて近代国家によって「国家のいち部分」としての支配を受けたことになる。それまでの清朝は、自国民の台湾への渡航制限を厳格に行い、実質的に台湾への移民を禁止していた。
しかし、相次ぐ内乱などに嫌気が差し、一旗揚げるための「新天地」として台湾を目指す人たちには、そうした移民禁止政策は有名無実であった。さらには、少し遅れて広東地域から「客家」と呼ばれる人たちが台湾にやって来るが、結果、17世紀末から19世紀初頭まで漢族の移民が続き、台湾西部の開拓が大きく進むこととなったのである。
このように中国大陸から台湾へ移民してきた漢族系の住民を、日本時代には「本島人」と称し、現在は「本省人」と呼んでいる。この本島人に先んじて台湾に居住していたのがマレー・ポリネシア系の住民である「原住民」と呼ばれる人たちだ。
かれらは16世紀半ばにはすでに台湾に居住していたとされるが、日本統治時代には「高砂族」と呼ばれ、その勇敢な性格や森林を自由自在に走り回る身体能力から、戦時中には「高砂義勇隊」が結成され、日本の戦果に大きく貢献したことをご存知のかたも多いだろう。
戦後には国民党とともに「外省人」と呼ばれる、やはり漢族系の人たちが台湾にやって来た。その数は100万とも200万とも言われるが正確な数字は分かっていない。
このように、現在台湾人の97%を漢人系のエスニックグループが占めている。しかしこの漢人系の人たちとひとくくりに言っても、台湾語を母語とする本省人のほか、広東系の客家、外省人が存在する。客家の人たちからすれば、台湾語は自分たちの母語ではなく客家語こそが母語だ。また、外省人は、政治的に見れば国民党による強権を用いて台湾の人々を弾圧した歴史はあるが、言語の面からみれば、彼らの母語は中国語であり、台湾語ではない。
さらには、漢人系のエスニックグループに入らない原住民は、現時点で政府が公認したものが16族存在するが、研究が進めばもっと増えることが予想される。かれらが持つ言語はみなマレー・ポリネシア系統に属するといわれるが、それぞれが異なる言語を持っているため、台湾で話される言語の数は計り知れないものがある。
台北を訪れ、捷運(MRT)と呼ばれる地下鉄に乗ると、アナウンスが複数の言語で行わることに気づくだろう。中国語、台湾語、英語だが、主要駅では日本語も行われる。在来線の台鉄では中国語、台湾語に加え客家語もアナウンスされる。こうした、言語の面においても「多民族」な社会が台湾であり、台湾の縮図なのである。
中国語を強要され、母語たる台湾語を奪われた(禁じられた)人たちからすれば、その反動で「台湾語を公用語に」と言いたくなる気持ちも理解できる。ただ、この多民族が同居する台湾においては、台湾語が母語ではない人々も多く存在することを忘れてはならない。
確かに現在の台湾では、外省人だったり原住民だったりと、決して母語が台湾語でないにもかかわらず、流暢に台湾語を話せる人たちも多い。それは一方で台湾社会の融和が進んだという現実かもしれないが、かといって「台湾語こそが台湾人の言葉」という言い方は、台湾語を母語とする本省人以外の、台湾の人々をないがしろにする恐れさえ帯びている。
李登輝が提唱する「新台湾人」とは?
今、台湾は政治の季節を迎えた。ただ、台湾はもはや完全な民主主義国家だ。民族によって社会を分断したり、対立が引き起こされるような民族主義の方向に台湾は進むべきではない。その解決方法を、李登輝はずっと提唱してきている。
「いつ台湾に来たか、ということは重要ではない。台湾の米を食べ、台湾の水を飲み、この土地を自分の故郷と思う人はみな『新台湾人』だ」。
この「新台湾人」という概念こそ、総統選挙を間近に控えた台湾を考えるうえで、日本人もまた改めて認識すべきではないだろうか。
1977年栃木県足利市生まれで現在、台湾台北市在住。早稲田大学人間科学部卒業。大学卒業後は、金美齢事務所の秘書として活動。その後、台湾大学法律系(法学部)へ留学。台湾大学在学中に3度の李登輝訪日団スタッフを務めるなどして、メディア対応や撮影スタッフとして、李登輝チームの一員として活動。2012年より李登輝より指名を受け、李登輝総統事務所の秘書として働く。