2024年11月24日(日)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2012年5月23日

ウイグルがチベットのように注目されない理由

 それにもかかわらず、オアシスのトルコ系ムスリム=今日のウイグル人がチベットと比べて国際的に注目を集めてこなかったのは、清が支配地の状況に応じて異なる統治のやり方を敷いたところによるかも知れない。

 チベットの場合は、ダライ・ラマという圧倒的な存在が、今日のチベット自治区の範囲で全く独自の政府=ダライ・ラマ政権を運営しており、清はダライ・ラマ政権が問題なく運営されているかどうかを監督するのみであった。

 しかも19世紀に入り清が内憂外患に見舞われると、北京から監督のために派遣された「駐蔵大臣」はろくに監督することすらしなくなり、外国の侵入に対してもダライ・ラマ政権の軍隊が独自かつ的確に対応する有様であった。太平天国の乱やら何やらで戦費も軍人も不足した北京は、単純にチベットに対して「良くやった」と伝えるのみであったのである。チベット亡命政府が「前近代以来チベットは独立国であり、北京とはチベット仏教の《パトロンと教団の関係》でしかない」と主張する根拠はこのへんの事情にある。

 これに対してトルコ系ムスリムの場合、ジュンガル亡きあと決定的な政治的求心力を持つ人物・勢力はいなかった。しかも清はジュンガルの復活を防ぐため、北京から新疆に大量の軍事力を送り込んでいた。

 その後19世紀になると、清は漢民族の農民反乱に見舞われ、北京の国庫は空になり、新疆の駐留軍は補給を失ったため、トルコ系ムスリムから容赦なく重税を取り立てた。異教徒の軍隊の横暴に対してトルコ系ムスリムが怒りを深めたのは当然であり、1820年代には大規模な反乱が起こったほか、1860年代には完全に清の影響力を排除した国家(ヤークーブ・ベグ王国)が成立したのである。 (後篇へつづく)

[特集] 中国によるチベット・ウイグル弾圧の実態

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