ウイグル人と漢民族
「同じ国に属する」意識なし
もともと、今日ウイグル人と名乗る人々、すなわち天山山脈南東側のオアシスに住むトルコ系のイスラム教徒(以下ムスリムと記す)と漢民族の関係は、交易や戦争をする程度のものでしかなく、互いに「同じ国に属する」などという観念は微塵もなかった。前近代の漢民族にとって、「中国」とは漢字文化がある土地のことを指すに過ぎず、漢字と儒教を知らない人々は、完全な人間と呼ぶに値しない「夷狄」(野蛮人)であり、たまに「夷狄」の国王が「中国」の呼びかけに応じて朝貢にやって来る際に、例えば高麗・朝鮮や南洋諸国と同じように「外国」「外藩」などと呼ぶ程度の存在に過ぎなかった。
一方、古来中国文化からみて「西域諸国」として独自の存在であり、仏教文化を有したこともあるオアシスの人々は、トルコ化・イスラム化以来このかた、アラビア文字を用いペルシャ語の語彙をふんだんに採りいれたトルコ語(チャガタイ・トルコ語)で文化を花開かせてきた。今日の新疆ウイグル自治区に残る古いモスクや王者の墳墓は、そのまま中央アジア諸国やイランのそれを彷彿とさせるものであり、そこに「中国」の面影を感じ取ることは不可能である。
ゆえに彼らは、今日の中近東に栄えたイスラム中心の諸帝国に好意を抱きこそすれ、およそイスラムとは縁遠い漢字・儒教文明なるものに「文明」としての価値を感じ、自らをその一員と感じること自体有り得なかった。「中国」が「夷狄」扱いした「西域」は、逆に「中国」を「夷狄」扱いしていたということである。
チベット仏教のパトロン争い
しかし、彼らの不幸は、17世紀に大きく台頭したモンゴル系の騎馬民族国家・ジュンガルの尻に敷かれてしまったことにある。
ジュンガルは、当時のモンゴル高原における「文明」であるチベット仏教を厚く信仰しており、支配下の異教徒であるトルコ系ムスリムに重税と労務を課していた。そのジュンガルは、当時東の方から台頭していた満洲人中心の国家・清とのあいだで、遊牧騎馬民族最大の名誉である《チベット仏教の最大のパトロン》の座を賭して激烈な対立を繰り広げた。清は清で、支配下に収めた漢民族から得た莫大な税収を、ジュンガルとの雌雄を決するべく湯水のように消費していたのである。
その結果1720年になると、清はジュンガルに聖地チベットを先取りされるのを避けるべく、チベットを完全に影響力のもとに置いた。さらに1750年代には、度重なる激戦の末、ついに清がジュンガルを滅ぼし、ジュンガル支配下の土地は当時の皇帝・乾隆帝によって「新疆」(「新しい土地」の意)と名付けられた。
要するに、ジュンガルに支配されていたトルコ系ムスリムが北京の強いコントロールの下に置かれるようになったのは、18世紀半ば以降の僅か2世紀半ほどの話でしかない。しかもそれは、チベット仏教のパトロン争いに巻き込まれた結果である。チベット人と、オアシスのトルコ系ムスリムは、全く同じ成り行きで清に組み込まれたという意味で運命を共にしているのである。