2024年11月24日(日)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2012年5月23日

 あるいは「中国に対する配慮」から、「中国は少数民族の人権を真に保護しているので憂慮していない」という立場を表明したり、あるいは亡命者それぞれの経歴や人格を考慮せずに「中国が《テロリスト》《分裂主義者》扱いしている人物を受け容れるのは、日中友好上問題があるので避けるべきだ」という判断をする人物がいるかも知れない。しかし思うに、そのような「友好的」で「人権擁護」的発想の中にある人権観は、せいぜい安っぽいファッション程度に過ぎないのではなかろうか。

「日本批判」は中国の「自己批判」につながる

 あるいは、中国は「日本が自由と人権を隠れ蓑にして再び中国への野心をたくましくしている」「日本が我が中国の国際的印象を損ねようとしている」と主張するかも知れない。そして「日本の帝国主義的侵略に抵抗した歴史を有する我々中国こそ、日本に比べはるかに自由と人権を代表する存在である」と宣伝するだろう。しかしこのような論法は、中国の近現代史の実態に照らせば最早まったく通用しない。何故なら、主語を中国からウイグル(またはチベット・モンゴル)に変えれば、そのまま現下の中国の民族問題に当てはまってしまうからである。

 現在、中国はウイグル人が住む新疆の地を「神聖なる祖国の不可分の一部分」と呼び、しかも諸外国が中国と国交を結ぶにあたっては、一律に中国の現領域の《神聖不可分性》を認めさせている。したがって中国は「我々のウイグル人に対する支配は、日本帝国主義の我々に対する支配と本質的に異なる。もともと同じ国家の中における《兄弟民族》の関係であり、異なる国家間における侵略と抵抗の関係とは異なる。諸外国もそれを承認している」と主張するに違いない。

 しかし、ある国家の領域がどの程度の大きさであり、どの程度異なる民族を含むか、あるいは諸外国からそれが認められるかは、複雑な内政・外交上の駆け引きによって決まることがもっぱらである。ある領土が古くから絶対的に固定されているはずもなければ、その中に住む人々が一律に現在の中央政府を自分たちの政府と信じ従うとも限らない。支配する側の論理だけでなく、支配される側からの積極的な服従・承認がなければ、あらゆる支配というものは覚束ないし、余りにも支配する側の論理ばかりでは反乱や抵抗を起こしたくなるのが道理というものである。

「戦前日本モデル」をコピー

 しかも、中国のウイグル人(そしてチベット・モンゴル人)に対する立場や発想は、「立ち遅れた、漢字を知らない少数民族に、巨大国家の一員として生きるためのパスポートである漢語(中国語)を与え、近代化と発展の恩恵を与える」というものである。それは大東亜共栄圏論に至る戦前日本のアジア諸国に対する立場と寸分違わないばかりか、近代中国自身が約一世紀前に日本の躍進――とくに日清・日露戦争の勝利――を見届けて以来真剣に戦前日本モデルをコピーしようとした結果なのである。

 具体的にはどういうことか、歴史をなるべくかみ砕いてご紹介したい。その複雑さを少しでも見通しておけば、ウイグル問題をめぐる中国の日本に対する圧力が如何に不当なものであるかがいっそうお分かり頂けるだろう。

→次ページ ウイグル人と漢民族 あまりに異なる意識


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