2022年8月13日(土)

補講 北朝鮮入門

2020年6月29日

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礒﨑敦仁 (いそざき・あつひと)

慶應義塾大学教授

1975年東京都生まれ。慶應義塾大学商学部中退。在学中、上海師範大学で中国語を学ぶ。慶應義塾大学大学院修士課程修了後、ソウル大学大学院博士課程に留学。在中国日本国大使館専門調査員、外務省専門分析員、警察大学校専門講師、東京大学非常勤講師、ジョージワシントン大学客員研究員、ウッドロウ・ウィルソンセンター客員研究員を歴任。慶應義塾大学専任講師を経て、現職。共編に『北朝鮮と人間の安全保障』(慶應義塾大学出版会、2009年)など。

[執筆記事]
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澤田克己 (さわだ・かつみ)

毎日新聞記者、元ソウル支局長

1967年埼玉県生まれ。慶応義塾大法学部卒、91年毎日新聞入社。99~04年ソウル、05~09年ジュネーブに勤務し、11~15年ソウル支局。15~18年論説委員(朝鮮半島担当)。18年4月から外信部長。著書に『「脱日」する韓国』(06年、ユビキタスタジオ)、『韓国「反日」の真相』(15年、文春新書、アジア・太平洋賞特別賞)、『韓国新大統領 文在寅とは何者か』(17年、祥伝社)、『新版 北朝鮮入門』(17年、東洋経済新報社、礒﨑敦仁慶応義塾大准教授との共著)など。訳書に『天国の国境を越える』(13年、東洋経済新報社)。

政策失敗に備え、行き過ぎた「神格化」後退か

 最近の北朝鮮メディアの報道には不可思議な点が多々見受けられる。たとえば、これまで党・国家の会議を数多く「指導」してきた金正恩委員長が、6月以降は「司会」するようになったことを挙げられる。

 4月11日の党政治局会議や5月23日の党中央軍事委員会第7期第4回拡大会議の報道では、金正恩委員長が「指導」していた。一方で、6月7日の党中央委員会第7期第13回政治局会議、23日の党中央軍事委員会第7期第5回会議予備会議は、金正恩委員長が「司会」したと報じられた。23日の会議は、対南軍事行動計画を「保留」したものだ。最高指導者以外に「指導」する人物がいるのであれば話は別だが、そのような様子は窺えない。となると、考えられることは一つしかない。

 それは、リスク回避という発想だろう。

 金日成主席や金正日国防委員長は全知全能と宣伝された。金正恩委員長もこの路線を継承してきた。しかし神格化が行き過ぎると、政策が失敗した時には権威失墜に見舞われかねない。

 このことを金正恩委員長に実感させたのが、昨年2月のハノイでの米朝首脳会談だったと考えられる。この会談は金正恩委員長にとって間違いなく失敗であり、自らが神でないことを露呈してしまった。北朝鮮国民は会談前に「偉大な元帥様」のおかげで経済制裁が解除されると信じ込まされてきたのに、実現しなかったのである。

 ここから得られた教訓が「指導」を「司会」に転換させたのだろう。これからも対米・対韓関係では大きな賭けに出る場面が出てくるだろうが、その時には全てが金正恩委員長の「指導」によるものとするより、党中央委員会政治局や党中央軍事委員会による機関決定と説明しておいた方がいい。そうすれば、失敗した時のダメージが金正恩委員長個人に向かうという展開を避けられるという計算だ。これと同様に、金与正氏を意図的に台頭させているのもリスクヘッジの一環と考えられる。

 北朝鮮の人々ならだれでも知っている逸話に「縮地法」がある。金日成氏が自由自在に瞬間移動しながら抗日ゲリラ運動を行ったというものだ。それが金正日氏にも適用されており、1990年代には旺載山(ワンジェサン)軽音楽団による「将軍様は縮地法を使われる」という歌が流行った。全国各地、神出鬼没で現地指導をして経済建設に邁進していることが喧伝されたのだ。

 縮地法は、指導者を神格化してきた代表的な例だ。ところが今年5月20日付『労働新聞』に突然、金日成氏が1945年11月に「実際には、人がいなくなったり、再び現れたりするなど、人が大地を縮めて行き来することはできない」と語っていたという記事が掲載された。神出鬼没の抗日ゲリラ活動をできたのは、日本の討伐隊の動きを逐一知らせてくれた人民のおかげであり、「もし、『縮地法』があるとすれば、それは人民大衆の『縮地法』であろう」と述べたというのである。

 金正恩委員長は、ハノイで挫折を味わった直後に「首領の革命活動と風貌を神秘化すれば真実を隠すことになる」と述べ、自らの神格化にブレーキをかけていた。『労働新聞』での縮地法否定は、これまでの代表的な神格化の否定にも着手したと読める。金正恩政権は発足から間もなく10年となるが、いまだに金正恩バッジもなければ、金正恩委員長の肖像画が各家庭や職場に掲げられることもない。

 『労働新聞』紙上で金正恩委員長の肖像画が確認できたのは、中国の習近平国家主席やキューバのミゲル・ディアス=カネル国家評議会議長が訪朝したときに限られている。いずれも主賓の肖像画とともに掲げられたばかりか、新聞紙上では目をよく凝らさないと探せないほど小さな扱いだ。2019年6月28日に国務委員長推戴3周年を祝う中央報告大会が開催された際、朝鮮中央テレビは会場に大きな肖像画が単独で掲げられた様子を報じた。しかし、翌日付『労働新聞』は写真を一切掲載しなかった。このような大会で写真掲載がないのは異例のことであり、意図的に抑制されたと言える。

 金正日氏の肖像画は、1980年代から金日成主席の肖像画と並べて掲示されることが求められていた。「金日成将軍の歌」に並ぶ「金正日将軍の歌」は金日成死去から3年後の1997年に発表され、その頃には金正日バッジが出回り始めていた。

 金正恩委員長については1月8日の誕生日も公に祝われておらず、生年すら明らかにされていない。80年代から誕生日が公休日となっていた金正日氏の扱いとは大きく異なっている。

 コロナウィルス感染防止のため5か月以上も国境を封鎖していることから北朝鮮国内で経済的な問題が発生しているだろうことは、6月7日の党政治局会議で「首都市民の生活保障における当面の問題」が議題とされたことからも読み取れる。また、最高機密である金正恩委員長の健康状態については知る由もない。

 どちらにしろ、金与正氏の台頭はリスク分散という効果を考えてのものである可能性が高そうだ。それが、金正恩流の現実主義ということであろう。

  
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