大正10年に魚屋として創業
大将の義久さんの判断で、家族の歴史を書いてもらう分にはいいだろう、ということになった。すると恵子さんが、家族全員の名をノートに丁寧に書いてくれた。昼の主役、三代目の増田義一さん(72歳)と主に煮炊きを手がける妻の久子さん(65歳)、お勤めをしながら週末は手伝いに参じる長女の純子さん(41歳)、4代目の義久さん、そして次女の恵子さん。
義久さんには、コロンビア出身の妻、サンドラ・ミレナさんとの間に杏奈さん(14歳)、聖奈さん(10歳)の娘がいて、恵子さんにも建築家のご主人、原村武治さん(42歳)との間に、2歳の瑠花ちゃんと1歳の達哉君がいる。
「去年までは、10人暮らしだったからね。大所帯だったのよ」とお母さんがノートを覗く。
店に隣接する懐かしい物干し台のある2階家に一家は暮らしている。昨年、子供がまだ夜泣きするからと、恵子さん夫婦は近くに越したが、恵子さんが店に立つ夜、お母さんは幼い子供たちの子守りに大わらわである。
家族経営こその強み
家族経営は、かつては、雇用条件が悪いとか、儲からない業態の典型にように言われた。けれども、この店をみる限り、グローバル化の中で生き残る強さの秘密は、その家族経営にある。話を伺うと、何となく手伝っている人など誰もいない。たとえば、恵子さんも、18歳、家政科の学生だった頃から店を手伝うベテランだ。その後日本料理屋でも3年、料理やフロアの仕事を学んだ。
店もまた、『魚屋』から現在の昼の『定食屋』と夜の『鮨屋』のかたちになるまで、3度も業態を変えた。
創業は大正9年。明治末期の地図をみれば、雑司ヶ谷辺りは、後に巣鴨プリズンと呼ばれる江戸時代からの刑場があるだけで、池袋駅前も田畑と林ばかりである。そこに急激な都市化が進んだのが、ちょうど大正10年頃だ。後に都電となる電車の駅もすでに在る。
恵子さんが、改装時に奥から出てきた昭和33年の店の写真を見せてくれた。捨てビラと呼ばれる殴り書きの値札が所せましと貼られ、雇いの人の姿もみえ、当時の繁盛ぶりを窺わせる。築地で仕入れた魚は、その日のうちに完売した。
だが、『魚真』は、その頃から義一さんの母親が、仕出しの仕事を受けていた。