2024年12月22日(日)

都会に根を張る一店舗主義

2012年7月13日

 「その頃は、ご近所の冠婚葬祭だね。だってね、三三九度のお猪口やら、箱膳やら一式、輪島塗のりっぱなの、うちで持ってたんだよ。お見合い、結婚式、お通夜、葬式ね。でも今は、葬式は葬儀屋、結婚式はみんなホテルだろう。」

 義一さんは言う。ご近所の注文が減っても、近くの会社に弁当を納めるなどし、母親が他界後は、妻の久子さんが30年、これを続けた。

 70年代、スーパーの進出にともない、地元商店街は少しつづ疲弊していく。恵子さんの学生時代には、まだパン屋も、八百屋も、肉屋も、靴屋もあったが、今は美容院と歯科医くらいしか見当たらない。

個人店が生き残るには……

 平成2年、魚の売上げが減った『魚真』では、その状況を打開すべく、脇の駐車場に店を作り、昼の定食屋を始めた。カウンターとテーブル席二つの小さな店だ。巣鴨プリズンの跡地に78年、サンシャインビルが完成、人通りだけは多かったのが、救いだった。

 7年前には、恵子さんの提案で、夜も経営することにし、魚のうまい「赤ちょうちんのような店」を開業した。

笑顔が素敵な3代目、義一さん

 商店街の疲弊というと、すぐに大型量販店の進出ばかりを連想するが、義一さんの話を伺うと、消費者も、自分らの意志で個人店から離れていったさまがわかる。

 「難しいね。今や、市場でもスーパーの先取りが60%くらいだからね。それだけ小売店の購買力が落ちたってことだな。30年ほど前は、都内に約3000軒の魚屋があったそうだけど、今じゃ1000軒くらいだからな。昔、この界隈は目白署の管轄だったんだけど、そこに魚屋が17軒あったのが、今じゃ6軒だからね。」

 魚屋を廃業するのは、義一さんもさぞ残念だったことだろう。

 「続けたかったけど、まあ、お客が応えてくれなかったってことかな。俺だって三代目でも意地がある。親父の代より、魚がまずくなったとは言わせないと、問屋にも親父の頃よりいい魚、持ってきてくれって言ってたからね。あのさ、バブルの頃、男子が厨房に入っただろ、あれが悪かったな。やたら高いものに走ってさ。今度は経済が悪くなると、急に安いものに走るだろ。」日本人は、どうも数字にばかり翻弄されて、ものの本質を見失っているということである。これから個人店が生き残るには、どうしたらいいんでしょうね?と訊くと、

 「そうだね、やっぱり、店にくるお客に伝えてくってことかな、イワシなんて冬に喰ってもうまかないってなことをね」と肩をすぼめながら、夜の仕込みにかかる義一さんだった。

ネタがよくて、値段もありがたい
4代目の意地と「寿司屋」

 こうして店が最後の変化を遂げたのは、2011年4月のこと。

 長男の義久さんに、頑固な父、義一さんが、ついに店の経営を託した。


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