「その頃は、ご近所の冠婚葬祭だね。だってね、三三九度のお猪口やら、箱膳やら一式、輪島塗のりっぱなの、うちで持ってたんだよ。お見合い、結婚式、お通夜、葬式ね。でも今は、葬式は葬儀屋、結婚式はみんなホテルだろう。」
義一さんは言う。ご近所の注文が減っても、近くの会社に弁当を納めるなどし、母親が他界後は、妻の久子さんが30年、これを続けた。
70年代、スーパーの進出にともない、地元商店街は少しつづ疲弊していく。恵子さんの学生時代には、まだパン屋も、八百屋も、肉屋も、靴屋もあったが、今は美容院と歯科医くらいしか見当たらない。
個人店が生き残るには……
平成2年、魚の売上げが減った『魚真』では、その状況を打開すべく、脇の駐車場に店を作り、昼の定食屋を始めた。カウンターとテーブル席二つの小さな店だ。巣鴨プリズンの跡地に78年、サンシャインビルが完成、人通りだけは多かったのが、救いだった。
7年前には、恵子さんの提案で、夜も経営することにし、魚のうまい「赤ちょうちんのような店」を開業した。
商店街の疲弊というと、すぐに大型量販店の進出ばかりを連想するが、義一さんの話を伺うと、消費者も、自分らの意志で個人店から離れていったさまがわかる。
「難しいね。今や、市場でもスーパーの先取りが60%くらいだからね。それだけ小売店の購買力が落ちたってことだな。30年ほど前は、都内に約3000軒の魚屋があったそうだけど、今じゃ1000軒くらいだからな。昔、この界隈は目白署の管轄だったんだけど、そこに魚屋が17軒あったのが、今じゃ6軒だからね。」
魚屋を廃業するのは、義一さんもさぞ残念だったことだろう。
「続けたかったけど、まあ、お客が応えてくれなかったってことかな。俺だって三代目でも意地がある。親父の代より、魚がまずくなったとは言わせないと、問屋にも親父の頃よりいい魚、持ってきてくれって言ってたからね。あのさ、バブルの頃、男子が厨房に入っただろ、あれが悪かったな。やたら高いものに走ってさ。今度は経済が悪くなると、急に安いものに走るだろ。」日本人は、どうも数字にばかり翻弄されて、ものの本質を見失っているということである。これから個人店が生き残るには、どうしたらいいんでしょうね?と訊くと、
「そうだね、やっぱり、店にくるお客に伝えてくってことかな、イワシなんて冬に喰ってもうまかないってなことをね」と肩をすぼめながら、夜の仕込みにかかる義一さんだった。
ネタがよくて、値段もありがたい
4代目の意地と「寿司屋」
こうして店が最後の変化を遂げたのは、2011年4月のこと。
長男の義久さんに、頑固な父、義一さんが、ついに店の経営を託した。