打開するため、婿として事業を刷新
1973年生まれの朝霧重治が、三菱重工業をわずか1年半で退社して、協同商事に入社したのは1998年10月。重治はもともと川越市出身で、夫人とは小学6年生の時からの知り合いだった。02年には予定通り結婚して、朝霧姓になる。
いよいよ追い詰められていった06年10月、副社長になっていた重治が主導してビール事業の抜本改革に着手する。「すべてをやり直しました。危機が大きかったから、新しいことができました」。
それまで展開してきたビール事業を、すべてやり直すことから改革は始まる。工場の稼働率を上げるため、各地の地ビールのOEM生産を多く請け負っていたのを、やめる。
自社商品は、一部を終売する一方、ロゴやパッケージをすべて一新する。漢字で「小江戸」とあったのを「COEDO」に変更。ブランドを刷新して、「地ビール」や「川越」の看板を一旦下ろしてしまう。「小江戸」のときには、川越を連想させる、古い家並みやヒョットコのイラストが設えてあったが、これらもやめてしまう。地ビール感を払拭する一方、海外展開を視野に入れたためだった。
社長の幸嘉は「すべて任せる。早くやってくれ」と言ってくれた。その分、責任は重くプレッシャーは半端ないほどにかかった。自社ブランド商品の統廃合では、ある商品を巡り社内で葛藤もあった。
さらにその後、地ビールに回帰し、テロワールの概念を取り入れていく。そこには、上質さ、すなわち愛されるモノづくりへの挑戦があったが、後編で詳述する。
(後編に続く)
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