2024年11月23日(土)

Wedge REPORT

2020年10月1日

川越の観光地化で進めたクラフト開発

 協同商事は有機栽培農産物の産地直送などを手掛ける農業ベンチャーとして、1982年に朝霧の義父、幸嘉(故人)が創業した。

 ワインはもちろんだが、同じ醸造酒であるビールも農業との関わりは深い。テロワールという概念は、農業を祖業とした同社の生い立ちによるものだろう。

 一方、"蔵の街"として知られる川越は、首都圏でも有数の観光地である。コロナ前の2019年の観光客数は約775万7000人(前年比5.7%増)に及んでいた。1989年のNHK大河ドラマ「春日局」が、観光客が押し寄せるきっかけ、とされている。

 いわゆる"地ビール”が解禁されたのは1994年。国はビールの最低製造数量を年間2000キロリットルから同60キロリットルに大幅に引き下げた。地ビールブームが巻き起こり、数年の内に約300社が参入を果たす。

 川越が観光地化していくなかで、クラフトビールに入っていくわけだが、協同商事が当初目をつけたのは地元産の麦だった。大消費地である東京に近い川越の野菜農家は、麦を出荷せずに緑肥として畑に鋤き込んでいたのだ。麦は儲からないためだったが、「出荷しないなんてもったいない。肥料でなくビールの原料に使えたら」と発想したのがそもそもビールづくりを始める動機だった。

 しかし、麦は調達できても、麦を麦芽(麦を発芽させて根を削除し乾燥させたもの)にする独立した製麦業者が日本にはなかった。試行錯誤してみたが、地元産麦の使用を断念する。サツマイモを原料として始めたのは、このためだった。

 96年に年間100キロリットルを生産できる設備を川越市郊外の直営レストランに導入。この規模ならば、観光地化が急速に進む川越の「美味しい名品の一つ」あるいは「お土産品」として、観光客の増加に乗っかっていればそれなりにやっていけたはず。現実に、物珍しさも手伝いレストランは盛況を博す。生産は追いつなくなり、市内の酒販店や百貨店への供給は滞ってしまう。

 このため、翌97年に年間2000キロリットルを生産可能な設備をドイツから輸入し、第二工場を近隣の三芳町に建設してしまうのである。97年には、ドイツから代々ブラウンマイスターを務めていた家系の4代目クリスチャン・ミッターバウアーを招聘。5年間、同社の醸造家たちはミッターバウアーからビールづくりの手ほどきを受ける。

 当初の工房的なモノづくりから、大きな投資をした工場を中心とするビール・発泡酒ビジネスへ。近代的な経営は求められ、事業の中身は変わってしまう。しかも、全国で盛り上がっていた地ビールブームは収束していき、気がつけば同社は窮地に陥っていく。他の多くの地ビールメーカーと同じように。設備投資をしたのに、事業は赤字となっていく。


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