経済学界の中枢から
突如として離脱する
東京大学の数学科を最優秀の成績で卒業して大学院に進学した宇沢は、敗戦直後の混乱の中でマルクス経済学と出会い、経済学者への転身を決意した。マルクス主義にはなじめなかったものの、新古典派経済学の数理経済学に触れるとたちまち才能を開花させる。20世紀を代表する理論経済学者であるケネス・アローに論文を送ったところ、スタンフォード大学に招かれたのである。
28歳で渡米してアローのもとで研究を始めると、ロバート・ソローやポール・サミュエルソン、ジェームズ・トービンなどから高く評価された。名を挙げた経済学者がすべてノーベル経済学賞受賞者であることからもわかるとおり、経済学界の中枢メンバーに迎え入れられたのだった。
「数理経済学の最先端で活躍して、あそこまで尊敬された経済学者は日本人では後にも先にも宇沢さん以外にはいない」
スタンフォード大学教授などを務めた青木昌彦は米国での評価をそう語っていたが、実際、スタンフォード大学准教授をへて弱冠35歳でシカゴ大学教授に就任した宇沢は、若手理論家の中で1、2を争う存在だった。
ところが、名声が高まっていた1968年(昭和43年)、不惑を迎える年に宇沢は米国を去る。東京大学への突然の移籍は米国の経済学者たちを驚かせた。謎めいた帰国だったが、あえていえば、「アメリカ社会」「アメリカ経済学」との決別だった。
ケネディ政権が始めたベトナム戦争は、ジョンソン政権で泥沼化した。17歳で敗戦を体験した宇沢は覇権国・米国がベトナムに政治介入することに早くから批判的で、シカゴ大学では反戦運動に熱心に参加した。
学問面では、シカゴ大学の同僚ミルトン・フリードマンとしばしば議論を闘わせた。シカゴ学派の頭領にして市場原理主義の教祖的存在だ。もっとも、宇沢はサミュエルソンらアメリカ・ケインジアンにも重大な理論的欠陥があるとみなしていた(当時はケインジアンが優勢だった)。もはや戦時下の米国に留まる理由を見出せなかったのである。
帰国してからの宇沢は、まるで別人だった。高度経済成長の歪みとして現れた水俣病に代表される公害問題、地域開発にともなう環境破壊を研究対象に据え、現場に足しげく通うようになった。
画期となる『自動車の社会的費用』(74年、岩波新書)刊行後、現場主義はより徹底していく。90年代に入ると、成田空港建設をめぐって農民が政府と激しく衝突した三里塚闘争の和解を仲裁するなかで、農業を社会的共通資本と捉えたコモンズ論を「三里塚農社の構想」にまとめあげ、同じころ、つまり30年前に地球温暖化の研究も始めている。
現実との格闘から、社会的共通資本の経済学は生まれた。米国時代の「世界的名声を博した数理経済学者」が〈前期宇沢〉なら、〈後期宇沢〉は「社会的共通資本の提唱者」である。コロナ危機のいま、注目すべきはむしろ〈後期宇沢〉だ。
〈社会的共通資本は、一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能とするような社会的装置を意味する〉(『社会的共通資本』00年、岩波新書)
宇沢は社会的共通資本の構成要素として①自然環境(大気、森林、河川、土壌など)②社会的インフラストラクチャー(道路、交通機関、上下水道、電力・ガスなど)③制度資本(教育、医療、金融、司法など)を挙げている。