〝マラッカ・ジレンマ〟を回避し
港湾でインドを包囲
では、ヤンゴンと比べれば無名に等しい沿岸都市チャオピューを、なぜ中国はパイプラインの起点として選んだのであろうか。
理由はインド洋と太平洋を結ぶマラッカ海峡にあると考えられる。同海峡は1日平均で200隻以上の船舶が通過する要衝である。このマラッカ海峡が、仮に米軍に海上封鎖された場合、中東産原油の輸入がストップするという〝マラッカ・ジレンマ〟を中国は警戒する。
このマラッカ・ジレンマ解消の一助となり、沖合で天然ガスが産出されることでチャオピューが選ばれたのであろう。中国は、このほかにパキスタンのグワダル港から新疆ウイグル自治区までを結ぶ中国パキスタン経済回廊(CPEC)を開発しているほか、既にロシアや中央アジアからの天然ガスをパイプラインで輸入している。
ただ、チャオピューからのパイプラインは敷設済みであるのに、なぜCMECとしてインフラを新たに建設する必要があるのか、疑問は残る。この点は筆者の推測の域を出ないが、鉄道や道路を通じて追加的な原油と天然ガスの輸送が可能であること、さらには鉄道建設後に仮に運行にも関わることができれば、パイプラインのリスク管理や拡張がしやすくなることなどが考えられる。
加えて、パキスタンのグワダル港、スリランカのハンバントタ港、チャオピュー港を、インド洋における中国船舶の補給基地などとして活用することもできる。インドを囲む〝真珠の首飾り〟であるチャオピュー港などの港湾が、軍事転用される可能性もあり、CMECは対インド有事の際の重要な補給路となり得る。ただ、一方のインドも、チャオピューの沖合800㌔メートルほどに位置し、マラッカ海峡にも睨みを利かせるアンダマン・ニコバル諸島で軍事拠点化を進めており、今後は中印双方の陣取り合戦の様相を呈する可能性も否めない。
習近平氏は、20年1月に2日間にわたりミャンマーを訪問、スー・チー氏との間でCMECを含む33の覚書を締結している。この動静からも、昆明からチャオピューを結ぶルートは、現代版〝援習ルート〟と位置付けられよう。
CMECの裏に
改革開放にさかのぼる文脈
CMECのミャンマー側は、パイプラインを除けば構想の域を出るわけではない。一方中国側は、険しい山々を切り開き、具体的にインフラが整いつつある。
まず昆明からミャンマーとの国境がある瑞麗まで、1996年から20年弱の歳月をかけ、2015年末に全長702㌔メートルの高速道路を完成させた。昆明と瑞麗の間は1000㍍以上の高低差に加え、メコン川など大河もあり、難工事を経た上での完成である。また、18年に昆明・大理間292㌔メートルを5年の歳月をかけて建設した高速鉄道のその先の瑞麗までの区間も、数々の難工事に直面しながらも、その建設を進めている。
重要なのは、チャオピューからのパイプラインと同様に、この高速道路もCMECに合わせて建設が始まった訳ではないことだ。元々は中国全土を南北方向に5本、東西方向に7本の高速道路網を張り巡らす「五縦七横」構想の一つである、上海と瑞麗を結ぶ上瑞高速道路の一部である。この五縦七横は1992年の国務院の決定に基づくもので、2007年までの15年間にその大部分を占める3万5000㌔メートルが開通している。特に、アジア通貨危機による影響緩和の景気刺激策として、1998年に高速道路建設は加速された。
その後の2007年までの期間は、経済発展が遅れた西部12省・市・自治区の経済発展を促す「西部大開発」が進められた時期と一致する。当然ながら、雲南省はその対象地域であり、とりわけ国境地域の経済発展が隣国との貿易関係を通じて強化されていた。筆者も06年に雲南省を含むメコン川流域諸国の国境経済圏の研究に取り組み始め、昆明・瑞麗間を往復したが、ミャンマーに続く一般国道の整備状況が、未舗装道路など悪路の多かったラオスやベトナムへの道路と比べても、特に良好であったことが印象に残る。
一帯一路の中のCMECは、1990年代からのインフラ建設やミャンマーとの関係構築といった蓄積の上にあり、今や中国のエネルギー安全保障にとって欠かせないルートとなっている。2006年当時から「南進する」中国と言われてはいたものの、国境経済圏開発の延長線上に、マラッカ海峡を通らずに済むインド洋への海洋進出があるとは思いもよらなかった。
しかし、尖閣諸島や南沙諸島などを自国の領土と定めた中国の「領海法」の制定、五縦七横の政策実施、さらには当時の最高指導者鄧小平氏が中国南部を巡り改革加速を呼び掛けた「南巡講話」を行った年は、いずれも1992年である。このことを考えると、CMECが鄧小平の時代から周到に準備されたレールの延長線上にあるのではと勘繰りたくもなる。
こうした中国の思惑に対して、ミャンマーは従順にもみえるが、実はそうでもない。そこには、中国とインドという大国の狭間で、時として双方を天秤にかけながら、したたかに対応してきた歴史がある。