2024年11月25日(月)

解体 ロシア外交

2012年10月11日

結果は野党が勝利
現首相は選挙前に欧米諸国の指導者から圧力も

高い透明性の中、緊張感一杯の開票風景

 結果はGDの勝利に終わった。GDは比例代表(77議席)で44、小選挙区(73議席)で39の計83議席を獲得し、過半数を占めたのだ。UNMは各々33、34議席で計67議席にとどまった(2008年の前回議会選挙では合計119議席だったので半分近く減席)。

 選挙前は、選挙結果をめぐりグルジアに内乱がおこる可能性も多々囁かれていた。何故なら、もしUNMが勝てば、野党が結果を認めず暴力に訴える可能性があり、また逆にGDが勝てばサアカシュヴィリが結果を認めず手荒い手段に出る可能性が危惧されていたのだ。

 だが、それは杞憂であり、サアカシュヴィリは選挙翌日2日午後に、GDの政治方針には賛同できないとは言いつつも、敗北宣言を行った。GDの支持者はスクリーンにサアカシュヴィリの敗北宣言を何度も放映しながら、歓喜の声をあげた。サアカシュヴィリがあっさり敗北を認めたことは、国内外で驚きの目で受け止められたものの、氏は選挙結果を素直に受け止めるよう、選挙前に欧米諸国の指導者からかなり強い圧力を受けていたそうである。サアカシュヴィリは、野党政治指導者として新たな出発点に立った。

 他方、次期首相になり、また新憲法によりグルジアの政治権力を掌握することが確実となったイヴァニシュヴィリはサアカシュヴィリに退陣を迫る一方、今後、UNMなど野党政治家と協調していく方針を明らかにした。

色褪せた「バラ革命」

 ここで、今回の選挙に至るまでの経緯、歴史的背景を振り返りたい。

 2003年の「バラ革命」で国民の圧倒的支持を得て大統領となったミヘイル・サアカシュヴィリは「バラ革命」を共に主導したニノ・ブルジャナゼを国会議長に、ズラブ・ジュヴァニアを首相として政権をスタートさせ、旧ソ連諸国の中で最も親欧米路線かつ民主化を推進する指導者として欧米諸国から高い評価と期待を得ていた。

 しかし、その後、サアカシュヴィリの権威主義化が目立つようになっていった。ジュヴァニアが変死し(サアカシュヴィリによる暗殺という疑惑は根強くある)、閣僚は頻繁に変えられるようになった。そして、政治の強権化のみならず、メディアへの圧力、縁故採用、汚職などで、大統領第一期目末期の2007年頃には、すでに国民の反感がかなり高まっていた。2007年11月には、激しい抗議行動が起こり、それを政権が弾圧したことで、大きな混乱が起こったが、サアカシュヴィリは大統領選挙を前倒しすることでなんとか状況を収束させた。

 そして、2008年1月の前倒し大統領選挙で、サアカシヴィリは辛くも勝利するも、ブルジャナゼもサアカシュヴィリから離反し、主導的な反体制的活動家となるなど、「バラ革命」の情熱はグルジア政治からは消え去っていた。このころには、すでに「バラ革命」は色褪せたといわれるようになっていた。

 2008年8月には、南オセチア問題をめぐり、ロシアとの間の「グルジア紛争」(日本のメディアはこのように呼んでいるが、れっきとした戦争である)も発生し、一時、グルジアは「反ロシア」でまとまりを見せたものの、同戦争を契機にロシアがアブハジアと南オセチアを国家承認したことで、両地域の奪還がより困難になり、またサアカシュヴィリが決定した先制攻撃により戦争が発生したことが明らかになると、国内外の氏に対する目は冷ややかとなり、支持もどんどん下がっていった。そのような中で氏は、メディア操作や反体制派の弾圧など、権威主義的な傾向をさらに強めていったのである。


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