「予想もできないこと」は一番面倒だ。ナシーム・ニコラス・タレブ氏は著書『ブラック・スワン』(2009年、ダイヤモンド社)で、ヨーロッパ人が豪州を発見した時に初めて黒い白鳥を見て、こんな不吉な白鳥がいるのは悪魔の土地だと恐れた話を書いている。幸せに暮らしていた七面鳥がサンクスギビング(感謝祭)に突然一生を終えるのは、七面鳥にとっては想定外だ。
英国で突然出現した牛の奇病である牛海綿状脳症(BSE)はだれも予想できなかった。予測は経験から生まれるのであり、過去に起こらなかったことは予測できないのだ。
ところで、ラムズフェルドが言及しなかった4番目の例がある。それが「知らなかったことにする」という場合だ。政治の世界ではよくあることで、例えば男女格差の有効な対策は進んでいない。
いずれにしろ予想もできない事態のリスク評価は困難なため、事前に対策を準備することはできない。リスクが顕在化したあとで「危機管理」対策を実施するしかない。
「知らない」リスク対策として生まれるゼロリスク
他方「知らないこと」のリスク管理は可能で、それが予防措置だ。かつて温暖化は科学的証拠が不十分な単なる仮説だった。しかし、もし起こったら地球環境は破壊的な影響を受けるとして、1992年の国連リオデジャネイロ宣言では、重大な損害の恐れがある場合には確実な科学的証拠がそろっていなくても対策をとる予防措置を採用した。
ここでもリスク最適化は重要である。温暖化は農水産業に打撃を与え、海面を上昇させて沿岸都市を水没させるなどのリスクがある。対策は化石燃料の削減だが、それはエネルギー不足を引き起こし社会経済的なリスクが高まるので、両方のリスクの合計を最小にする努力が始まった。現在は温暖化の証拠が集まり、対策は強化されている。
ところが「科学的証拠がそろっていなくてもいい」という予防措置の条件を極端に解釈して、「少しでも可能性があれば禁止」という主張が現れた。それはリスク最適化を無視したゼロリスクの主張だが、その背景にはリスクがあまりに大きいので対策のマイナスなどを考慮する余地がないという心情がある。そして、そのような心情を形成するのが「間違い科学」だ。
例えば遺伝子組換え作物を食べさせるとラットに乳がんができるという論文が発表され、遺伝子組換え反対運動に利用された。しかしこの論文は世界の科学者の批判を浴びた。
真実は論文一つで明らかになるという簡単なものではない。論文の結論には不確実性がある。それは次の論文で検証され、その積み重ねで不確実性が減り、真実に近づく。また科学の質を保証するのが学会であり、学会で認められた事実が真実に近いと考えられる。
遺伝子組換え作物に発がん作用がないことは多くの研究の積み重ねで証明されている。そこに出てきた発がん性があるという論文が間違いであることは専門家ならすぐに分かる。しかしメディアにとっては「これまでと違う」ことはニュース価値があり、論文が検証を受けていないことや、結論が学会の常識とは違うことは無視して大きく報道した。これを見た人が不安を感じるのは当然だろう。私たちの判断の根拠は情報であり、だからメディアの責任は大きい。