海軍の軍令部総長の永野修身の発言は、側近の「業務メモ」の中にある。
「ジリ貧になるから、この際決心せよ」「今後ますます(米英との)兵力差が広がってしまうので、いま戦うのが有利である」
こうした交戦論に対して、冷静な立場の軍務官僚もいた。海軍次官の澤本頼雄もそのひとりだった。「資源が少なく、国力が疲弊している状況では、戦争に持ち堪えることができるか疑わしい」と。
澤本は、「N工作(対米交渉)」の方向に向かうことこそ、国家を救う道であると主張していた。
生活に困窮する国民たちの「言葉」
指導者たちが懊悩(おうのう)するなかで、市民たちの暮らしは追い詰められてきた。輸入がままならないなかで物資不足が目立ってきた。コメの増産のために、農民は疲弊してきた。
鉄鉱石の輸入が難しくなったことから、鉄材を供出する運動も始まった。こうしたなかで、市民たちの感情はどうなっていったのだろうか。
慶應義塾大学の近代日本政治・社会史の教授である、玉井清は次のように指摘する。
「自分たちを苦しめているのは、政府ではなく、その背後で英国や米国が経済的に圧迫、われわれの生活はどんどん追い込まれていく。自分たちの生活を苦しめているのは敵。英米を叩いたら、生活も元に戻る。そういう意味で『お国のため』ということが素直に受け入れられていた」と。
精米店を営んでいた、井上重太郎は政府の統制に不満だったが、同業者の組合の店々と組んで、共同販売について相談していた。しかし、コメ不足によって、井上は廃業してしまった。
しかし、「国策協力」の役割はすぐに回ってきた。「隣組」の制度である。食糧の配給をはじめ、政府が市民の生活を統制する組織である。41年7月1日の井上の日記から。
「全国一斉に隣組の常会を開くという。今夜は自分のうちで開いてくれ、と頼まれている。全国民が張り切っている」
東京・四谷で乳児を育てている、金原まさ子は、統制下の物資不足のなかで懸命に生きていた。彼女は、冒頭に紹介したように、真珠湾攻撃に歓喜したひとりである。
「(子どもの)住代ちゃんにあげるおやつを探し回って、午前中をつぶしてしまった。パン屋さんは全部休み。世界戦争も実現するかもわかりません。住代ちゃんも食べるものも不満足でも、しっかりやっていきましょう。大東亜建設のため次の日本を背負って立つのは住代ちゃん、あなたがたなのです。丈夫に育って、立派にお国のために尽くしなさい。パパもまた、命を国に捧げなくなるかもしれません。アメリカの参戦も時期を早めるだろうとの予測もある。肉がない、お薬がないどころの騒ぎではなくなってきたのだ。しかし、これも明日のためならがまんする」
最新の学問領域である「ネットワーク・サイエンス」によると、あらゆる感情が、まるで病原菌があるように伝わっていく。戦争の熱気もそのひとつだろう。
80年前の1941年、日本は太平洋戦争へと突入した。当時の軍部の意思決定、情報や兵站を軽視する姿勢、メディアが果たした役割を紐解くと、令和の日本と二重写しになる。国家の〝漂流〟が続く今だからこそ昭和史から学び、日本の明日を拓くときだ。
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