山本五十六が「戦争への道」において、海軍部内でいかなる役割を果たしたのかについて、一次史料に基づき学術的な探求を行った成果は少数であり、それらも一般に広く知られているとは言えない。1940年9月の日独伊三国同盟締結時における山本五十六の言動について、そのことがよく当てはまるように思われる。
三国同盟に不安吐露するも
同盟の締結を海軍として正式に認めた40年9月15日の海軍首脳部会議において、山本は同盟締結による米国との関係の悪化や、海軍の戦力整備の不安について、当時の海軍大臣であった及川古志郎らに問うたものの、明確な回答が得られないまま同盟賛成が結論となり散会した、という話がある。たとえば阿川弘之『山本五十六』(新潮文庫)において、次のように記述されている。
「山本は立ち上った。
『私は大臣に対しては、絶対に服従するものであります。大臣の処置に対して異論をはさむ考えは毛頭ありません。ただし、ただ一点、心配に堪えぬところがありますので、それをお訊ねしたい。昨年八月まで、私が次官を勤めておった当時の企画院の物動計画によれば、その八割は、英米勢力圏内の資材でまかなわれることになっておりました。今回三国同盟を結ぶとすれば、必然的にこれを失う筈であるが、その不足を補うために、どういう物動計画の切り替えをやられたか、この点を明確に聞かせていただき、聯合艦隊の長官として安心して任務の遂行をいたしたいと存ずる次第であります』
及川古志郎は山本のこの問いに、一と言も答えず、
『いろいろ御意見もありましょうが、先に申し上げた通りの次第ですから、この際は三国同盟に御賛成ねがいたい』
と、同じことを繰返した。すると、先任軍事参議官の大角岑生大将が、先ず、
『私は賛成します』
と口火を切り、それで、ばたばたと一同賛成というかたちになってしまった」
会議では「反対」できなかったとの指摘も
一方、海軍史家の野村実(海軍兵学校71期・戦後防衛庁防衛研修所(現在の防衛省防衛研究所)において戦史編纂や公刊戦史執筆業務に関わった。山本五十六を対象として執筆された著書や論考も多数存在する)は、この発言について「山本の心境をよくうがっているけれども、会議席上の発言内容としては、あまりにもうがち過ぎているかの感がある」(野村『太平洋戦争と日本軍部』山川出版社、1983年)と述べ、疑問を呈した。
野村は、この会合に出席していた長谷川清軍事参議官(大将)の回想内容に基づき、山本の真意が「日本の軍備では対米戦に勝算がなく、米国に対抗するような条約に反対することであったことは確かであろうが、会議の空気から第二義的な発言だけに終わったと思われる」(防衛庁防衛研修所戦史室編・野村執筆『戦史叢書91 大本営海軍部・連合艦隊<1>』朝雲新聞社、1975年)と判断し、この会合の模様を以下のように描写している。
「会議の冒頭、総長の伏見宮が発言した。『ここまできたら仕方ないね』
この発言が同盟についての論議を封じた。反対するつもりで上京した山本は、わずかに、『この条約が成立すればアメリカと衝突するかも知れない。現状の航空兵力でははなはだしく不足している』との趣旨を述べ得たにすぎない。会議は同盟に賛成と決定してしまった」(野村『山本五十六再考』中公文庫、1996年)