「……日独伊三国同盟条約は六ケ條より成り、其の要旨左の如し……にして、結局、米国に対する無言の宣戦布告となった訳である。その結果は油、鉄屑、工作機械等の必需品は入らなくなり、必然的に蘭印【筆者注:オランダ領東インド、現在のインドネシア】又は樺太に求めざる可からざる事となる。茲(ここ)に於(おい)て問題となるは蘇【筆者注:ソヴィエト連邦のこと】の向背(こうはい)であるが、蘇が独伊側に投じ居る現在を日本との間に拡張することとなれば、本大戦の決は頗(すこぶ)る我に有利に展開することとなる可し。……世界の戦略対勢【筆者注:原文の表記の通り】は次の如くなる。独伊は欧州に於て英を押へ、其の海軍は其の一部の艦隊を欧州に牽制す可し。日本海軍は米を一手に引受け、英の一部を引き受くるを要するに到る可し。殊(こと)に蘭印を押(おさ)ゆる為、日本海軍は力量以上の広範囲の作戦地区を受持たざる可からざる事となれり。容易ならざる情勢也。……」
なお前出のメモにおいて、山本が蘭印について「日本海軍の軍備は西太平洋に進攻し来る敵を邀(むか)えて、之(これ)に打勝つことを目標として整備しあり。故に蘭印に出る事は海軍としては実力を以てしては到底保証し得ず」と述べていたことが記録されている。したがって、この保科の訓示内容は、山本の発言メモの内容をほとんどそのまま受け継ぎ、かつ、第一線の将兵(艦の乗組員)には同盟締結が「米国に対する無言の宣戦布告」であると断言している点で注目される。
海軍内で広がる危機意識
もう一つは、この当時海軍兵学校長であった新見政一中将(海兵36期、晩年に『第二次世界大戦戦争指導史』を刊行。この本は昭和天皇にも献上されたという)による「紀元二千六百年特別観艦式御親閲後賜りたる勅語奉読後校長訓示(昭和十五年十月十八日)」(『新見校長 兵学校に於ける訓示集』1987年に収録)である。兵学校の生徒に対し、やはり「同盟締結により日米関係は戦争突入への重要な段階に到達した」ことを明示した内容となっている。
「……新聞紙上等にも現はれて居る如く、援蒋第三国、殊(こと)に米国が英国と相結んで最近帝国に対し加へつつある圧迫はいよいよ露骨となり、我が国を包囲せんとの態勢を示しつつあるのである。斯(かく)の如きは単に、我が国の支那事変処理を困難ならしむるばかりでなく、我が帝国の存立をも脅(おびや)かすの情勢を馴致(じゅんち)しつつあるのである。我が国としては、此等(これら)列国との衝突は好む所ではないのであって、日独伊三国条約の締結も亦(また)、禍乱(からん)の拡大を防止し、速(すみや)かなる平和の克復(こくふく)を希(こいねが)ふが為であることは前に述べた通りである。併乍(しかしなが)ら、勢(いきおい)の趨(おもむ)く所、最悪の事態に陥(おちい)るなきを保(たも)ち難い情勢にあるのであって、今や我が国は其の安危(あんき)の岐(わか)れる、真に未曽有(みぞう)の重大時局に直面して居ると謂(い)はなければならぬ。而(しか)して今後来(きた)らんとする国難は、海正面よりするものであるから、此(こ)の国難を打開し、皇国永遠の隆運(りゅううん)を決定するものは帝国海軍を措(お)いて外にはないのである。帝国海軍の責務愈(いよいよ)重大と謂はなければならぬ……」
海軍部内でのこのような認識の広まりを踏まえて、山本は来たるべき戦争への準備に専心するとともに、他方では戦争突入を防止するため、伏見宮軍令部総長や及川海軍大臣に対して、予備役となっていた米内光政の現役復帰と軍令部総長への就任を柱とする人事上の進言を度々行っている。その詳細については、自らの職務ぎりぎりの範囲で自らの意図の実現に力を尽くした山本の非凡性と、その意見を容れなかった海軍の組織の硬直性を記した「異色の軍人・山本五十六 避戦、早期講和を阻んだ組織の壁」を参照されたい。(最終回へ続く)
80年前の1941年、日本は太平洋戦争へと突入した。当時の軍部の意思決定、情報や兵站を軽視する姿勢、メディアが果たした役割を紐解くと、令和の日本と二重写しになる。国家の〝漂流〟が続く今だからこそ昭和史から学び、日本の明日を拓くときだ。
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