1921年にワシントンで開催された軍縮会議(翌22年に条約締結)や、30年に開催され軍縮条約が締結されたロンドン海軍会議など、列強の艦艇保有量を比率によって制限しようする海軍軍縮会議に対する日本海軍のコミットメントについては、長きにわたって多数の研究や評論、当事者の回想が蓄積されてきた。
その中では、海軍軍縮条約体制脱退までの日本海軍部内の動向について「『押しつけられたロンドン条約』の神話や『劣勢比率』のノイローゼは、もともと合理主義をモットーとしてきたはずの海軍の内部、とくに軍令部系や艦隊勤務の青年将校らの間に、強烈な反英米感情や、海軍の体質になじまぬ一種の精神主義を浸透させていった」(池田清『海軍と日本』中公新書、81年)と指摘される。
したがって、30年代前半の日本海軍について一般に抱かれている印象は、「視野が広く合理的思考の持ち主が存在せず、軍縮条約に強硬に反対する〝艦隊派〟に主導され、反米感情と精神主義が力を増した。その結果として軍縮体制からの離脱があった」ということになる。
しかし近年、この分野で進展した実証研究の成果や、公開された一次史料の内容からは、そのような理解からさらに数段、進化した解釈が可能となっている。海軍部内の作戦・軍縮・軍備の担当主務者が作成した部内資料(現在では歴史史料といえる)をもとに、歴史的経緯を再構成してみたい。
既定路線だったワシントン条約の廃棄
まず海軍部内はワシントン軍縮条約締結時も、それ以降のロンドン海軍会議開催までの間も、軍縮体制受け入れの方針では一致しており、軍令・軍政部門が深刻な対立を生じていたとはいいがたい。
ただしロンドン軍縮条約は、36年末の有効期限が満了するとともに無効となり、それ以降の海軍軍縮については35年に会議を開催して関係諸国が協議することとなっていた(34~35年の第二次ロンドン軍縮会議)。34年になると締約国間では、日本海軍が同年末日までにワシントン条約の廃棄通告に踏み切るかどうかが重大な関心事となっていたが、すでにこのかなり前の時点で、海軍は同条約の廃棄を既定路線とすることで部内の意見が一致していた。