2024年7月16日(火)

日本人なら知っておきたい近現代史の焦点

2022年2月17日

 ワシントン条約の廃棄は避けられない規定の路線であるとしても、交渉時における英米の出方によっては、軍備に関する何らかの協定あるいは合意が実現する可能性も考慮されていたのであった。

 このときロンドンにわたった山本五十六少将をはじめとする日本全権団の主張は「国防安全感の平等および不脅威不侵略の原則のもとに、各国保有量の共通最大限度を制定する」というものであった。その「不脅威不侵略」の原則による軍縮の方法とは、「各国の保有兵力量の共通最大限を規定したい─―、つまり、日英米、あるいは仏伊とも、海軍兵力をどの程度まで持っていいかという共通の限界を定めて、その線は各国平等化してほしい、そのかわり、それを出来るだけ低いところに引いて、攻撃的兵器は廃棄し、防禦的兵器の充実にお互い力を入れようということであった」(阿川弘之『山本五十六 上』新潮文庫)。

 しかしながら、日本の主張を英米両国が受け入れることはなく、日本は34年にワシントン軍縮条約の廃棄を英米に通告したのである。また、ロンドン軍縮条約からも36年末をもって脱退した。したがって、結果としては〝艦隊派〟の望んだ通りの状況が到来したのであるが、これは日本海軍が全体として、早期から意図した路線ではなかった。

 外交史家のイアン・ニッシュによる、「諸外国からの誘いを振り切って、日本は熟慮した政策行為として重要な国際条約体制から離脱していったのである。その間、いずれの側にもあまり互譲の精神があったとは認められない」(『戦間期の日本外交』邦訳ミネルヴァ書房刊)という観察は、史実に照らして正確な分析であるように思われる。

日本にとって耳の痛い話は新聞雑誌が報道しない

 そもそも日本側には、海軍部内でも政府内も国内の言論界でも、第二次ロンドン会議において自国提案が英米両国代表から拒否された場合の代案が存在せず、軍事的観点からの交渉が何らかの合意を見なかった場合には、そのまま軍縮体制から脱退する以外に道がなかった。

 自国の主張が承認されうる国際的環境を作り出すことなく軍縮会議に臨んだ点で、日本海軍にも政府当局者にも誤算があったことは否定できないのである。

 この第二次ロンドン軍縮会議の開催当時、外交官出身の衆議院議員であった芦田均(戦後に首相)は、1933年の日本による国際連盟脱退通告以降の、世界における日本評と自国内でのそれとの深刻なギャップを以下のように指摘している。

 「最近日本の新聞雑誌を通じてみると、諸外国の形勢が如何にも日本に有利に転換したかのごとく想像される事が多いのであるが、その理由は言うまでもなく、日本の新聞雑誌は、諸外国において発表されて居る日本に不利益な、あるいは不愉快な論文・批評等はなるべく掲載しないで、たまたま日本に有利な、また日本人に愉快なる記事があれば、これを特筆・大書する傾向である。……日本国民はややもすると、世界の情勢が日本にとって有利に転換しつあるが如き印象を受け易いのであるが、仔細に諸外国における出版物、新聞雑誌等を見れば、かかる印象をもつことの果して正当や否や多大の疑いをいだかざるを得ない。……これらの空気を通じて今回の軍縮会議に対する諸外国の態度も、ほぼ想像し得ると思う」(「海軍軍縮を中心とする欧米列国の動向」)。


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