戦後に防衛庁(当時)が編纂した太平洋戦争の公刊戦史においては、「ロンドン条約締結以来日本海軍部内では、ワシントン条約の満期時廃棄は既定の事実と考えられており、条約を存続させる意向を示唆するような史料は、まったく見当たらない」と記されている。いわゆる〝艦隊派〟の行動(策動)だけによって日本はワシントン・ロンドン両条約体制から脱退した、とは言い切れないことになる。
海軍省と軍令部との間では、ロンドン軍縮条約締結にともなう海軍兵力改定・整備の作業が進められたが、当面は32年に開催されたジュネーブにおける国際連盟の軍縮会議(国際連盟一般軍縮会議)の結果を待って、兵力が決定されることとなった。
ところがその後、東アジアと欧州それぞれで軍縮体制が大きく動揺する事態が生じた。前者はいうまでもなく、31年に発生した満州事変と、33年の日本の国際連盟からの脱退通告である。
そして後者は、国際連盟一般軍縮会議が(連盟国および非連盟国60カ国を合わせた史上未曾有の規模となり、日本全権団の海軍随員も軍縮体制の枠内で日本に有利な提案を積極的に検討、実施したにもかかわらず)、第一次大戦後の国際秩序において自国のみが軍備を制限されているのを不服とするドイツが、米英仏伊の4国に「軍備平等権」の原則を承認させ、むしろ軍縮から逆行した以外、なんら積極的な成果を見ずに休会となったことである。
前者の一連の事態により、〝艦隊派〟が満州支配による日本の発展を評価し、その路線がもたらす影響(対米関係の緊張と悪化)に備えて海軍力の拡充を訴え、軍縮体制からの離脱を唱えていったことは知られている。
だが、後者もまた、海軍部内の作戦・軍縮・軍備それぞれの担当主務者にとって、「世界の主要国政府がもはや、軍縮体制の形成・維持による国際協調に熱意を失った象徴」と感じられた、きわめて重大な出来事であった。そしてドイツの勢力拡大の根拠であった「軍備平等権」は、海軍当局者にとってきわめて注目される原則であった。
この「軍備平等権」原則は、第二次ロンドン軍縮会議で日本全権に「軍備平等」を主張させ、会議の不成立と「無条約状態」への突入を志向した〝艦隊派〟によって33年秋ごろから唱えられたことは広く知られている。
〝艦隊派〟の望んだ通りの状況になったが……
だがここで留意すべきは、この原則が、日米間での建艦競争の到来を憂慮する立場から、ワシントン・ロンドン軍縮条約に代わる何らかの新たな軍縮条約体制の樹立を支持する者たちからも提唱され、一定の支持を受けていたことである。
そして、34年から開催された第二次ロンドン軍縮会議予備交渉に際して、9月に閣議で決定された「帝国代表に与ふる訓令」を見ると、たしかに従来の比率主義による軍縮方式を否定する「軍備平等権」の原則が盛り込まれていたものの、無条約状態への突入を直ちに是認したものではなかったことがわかる。