2024年4月24日(水)

あの挫折の先に

2013年5月27日

目も合わせてくれない父
苦しい思いに、ただ耐えた

 事業には希望が見え始めたが、髙見の挑戦はさまざまな軋轢を生んでもいた。

 彼が新しくオープンした葬儀場と、以前の葬儀場ではサービスのスタイルが異なる。新しい葬儀場は価格が安いため、オペレーションの効率化が必要だった。例えば、ご遺族との打ち合わせの回数を極力少なくし、逆に、残された家族がゆっくりと故人をしのべるご葬儀を提案した。この施策に父の代からの社員は反発した。こんなこともあろうかと、事業を継ぐとき、父から全権を譲り渡してもらったはずだった。しかし肝心の父も古くからの社員に同調し、髙見が東京へ出張に行っている間に、決めたことをみんなでひっくり返してしまう、などという事態も起きた。

 「しかし、父の代で35年間続け、成功していたビジネスモデルは目先の数年を耐えれば再び機能するかといえば、それはない。よく『業績が落ちても社員はリストラせずに乗り切る』とおっしゃる社長さんがいます。もちろん、それができれば理想的ですが、現実的には、そううまくいきません。さびしいことですが、この局面で思い切ってリストラをしたからこそ、危機を乗り越えられたのです。当然、痛みは全員で分かち合いました。父がせっかく建てた自社ビルも、持っていると資産として計上され、税金が必要となるため、取り壊しました。大きな社長室があり、『これは、父にとっての夢だったのかもしれない』とも思いましたが仕方ありません。古くから付き合いがあった業者さんとの取引もやめました。これも反感をもたれたと思います」

 しかし、髙見は話す。

 「この時点で、全責任は私の元にやってくるようになっていました。もちろん、アドバイスをいただいたり、責められたりもしましたが、責任を持たない方の意見より、自分の命がけの判断のほうが正確なのだと思います」

 切るべきは、切らなければならないのだ。ただし、必死であがき、苦しんだ結果は、父からの「家に来ないでほしい」という言葉だった。

 その父が、髙見がエポック・ジャパンの社長に就任して5年後に逝去した。

 「このあいだ、父と目を合わせたのは、一緒に取材を受けた時の1度だけです。しかし、父には感謝しています。私が始めていた『家族葬』は、当時は葬祭業界の方にとって面白くないビジネスモデルで、その風当たりの多くは、業界内にネットワークを持っていた父の元に行っていたようなのです。それを、私に話さず、よく止めてくれた、と思います」


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